混沌なりしは京の都(まち) ⑤
「――んあれ? 鍵が……。なんだ鬼っこ、おめえ、まだ帰ってなかったのかよ」
まるで一昔前の探偵。長い黒のコートに紳士的に見えるハット。長身を少し屈めて事務所に入ってきた痩身の中年男性は、右手でハットを取りながら絢十に視線を向けて、伸びた無精髭を指先で擦った。
「ふむ……」
「か、課長! ナイッスタイミング!」
いけない、心の声が口から出てしまった。
絢十は呆気に取られた表情で、突然入室してきた京都多種族安全機構最高責任者、暁時人を見上げている。本来は社長のはずなのだけれど、なぜかわたしは彼に課長と呼ばされている。その理由は、今以て謎だ。
「あ? なにがだよ。またなんかあったのか? ったく、勘弁してくれよ。おまえさんと違って、こちとらただの人間だ。これ以上忙しいと、ほんとに過労死しちまうぜ」
あいかわらず無精髭を擦りながら、眠そうな瞳をこっちに向ける課長。見るからに疲れ切った顔をしている。目の下の隈の濃さは絶好調、明日にはパンダになりそう。
「バイト! ほら、念願のバイト雇っといたで、課長!」
課長の表情が一瞬凍った。直後、渋い表情のままわずかに口元に笑みを浮かべた。それも、とびきり悪い笑みだ。
「ほう。よくやった、鬼っこ。今年一番の仕事じゃねえか」
これが今年一番だなんて、なんて虚しい仕事なの。
でも、これで味方が一人増えた。
「あ、あの、そのことなんですけど!」
突然の大声に、わたしと課長の視線が同時に絢十へと向けられた。
「申し訳ありません。僕はただの人間だから、やっぱりこの仕事はできそうになくて。できれば何か危険のない仕事を紹介してもらえたらなって……その……すみません……!」
数秒間の沈黙。
「弱ったねェ。うちも忙しくて、化け猫の手でも借りてぇくらいだったんだが」
「すみません……」
両膝から力が抜けてしまったわたしは、力なくソファにお尻を落とした。
仕方がない。両手の指先を組み、深呼吸をして冷静に考える。
うん。大丈夫。
毎日一緒にいられなくたって、一番近くで守ってあげられなかったとしても、お互いに連絡を取り合ったりはできるもの。
大丈夫。だから絢十には、なるべくこの近くの職場を探してあげよう。
わたしには、この人を守らなければならない理由がある。夏奈深雪の分まで。
胸が締めつけられるように苦しい。
また新しい携帯電話を買って、関係をやり直せばいい。今度は夏奈深雪ではなく、ちゃんと日向冬乃として。
彼が追い求めてきた夏奈深雪は、もうこの世界のどこにもいないのだから……。
そんなことを考えたわたしが口を開こうとした瞬間、大きな掌がわたしの肩に乗せられた。課長だ。
「ところでよぉ、うちのゴミ置き場が何やらグチャグチャになってたんだが、おまえさんの服は、ずいぶんとまた汚れてるねェ」
え?
「あ、す、すみませ、お腹が空いてどうしようもなくて!」
絢十が大慌てで頭を下げる。顔が真っ赤だ。
対する暁時人は、どこから取り出したのか折れたシケモクを口に咥え、ジッポで小気味よい音を響かせて火を灯した。
紫煙が、ゆらゆらと立ち昇る。
「弱ったねェ。知ってるか、坊主。ゴミ漁りは立派な犯罪だ」
課長の目つきが鋭さを増し、声が低く冷たく、ゆっくりと沈み込んでゆく。ただの人間のくせに、こういうときの課長は、赤鬼であるわたしですら恐ろしく感じられてしまう。
「行政がすでに半分死んじまってるとはいえ、最近は安機が全部手柄取っちまってるから、警察のメンツも立たねえ。ちょうどいい。おまえさんがうちの人間じゃねえってえなら、やつらに通報して引き渡してやるか」
ヒドい。ヒドいというか、卑怯だ。
赤くなっていた絢十の顔色が、一瞬にして血の気を失い、青ざめてゆく。
「そ、そんな。僕はそんなつもりじゃ――」
口元だけに笑みを貼りつけた課長の声が、低く、低く、不気味に響く。
「確か、刑法何条だったか。鬼っこ」
「刑法第二五四条、遺失物等横領罪。一年以下の懲役または十万円以下の罰金――」
わたしが呟き終わるよりも早く、絢十がやぶれかぶれといった具合に叫び声をあげた。
「チ、チクショォーーーーーーー! やりまぁす! やらせていただきまぁす! 一条絢十と申しますぅぅ! 明日からよろしくお願いしますぅぅぅ!」
課長が自らの椅子に腰を下ろし、長い足を組んで紫煙をくゆらせた。
「ハッハッハ、アホ抜かせ。今日からだ」
「今日からよろしくお願いしますぅぅ!」
「はいよ。とりあえず今日起こった事件のファイル整理から頼むわ」
「はい! 喜んでえええぇぇぇ……」
なんか……ごめんね……。
そうは思いつつも、わたしは頬が弛みそうになるのを必死で堪えた。
◇ ◇
人狼の牙が僕の肩口に喰い込み、骨ごと肉を喰い千切る――!
「わあっ!!」
たったの一日。いや、一晩か。すっかり座り慣れたソファで毛布を跳ね上げ、僕は身を起こした。冬だというのに、凄まじい量の寝汗をかいている。
「ゆ、夢か……」
心臓が痛いくらいに鼓動を刻んでいた。
窓の外からは、歪んだ鳥類の鳴き声がしている。窓を開けて景色を眺めれば、目の前を鴨川が流れ、旧京都駅の方面には神樹が悠然と聳え立っていた。
住み慣れた東京ではない。紛うことなき魔都京都だ。昨夜の出来事が夢ではなかったことを思い出し、僕は頭を抱え込む。
「どうしてこんなことに……」
この街で暗黙のうちに定められた“人間”のルールは三つ。
その一。曰く、深夜に外を出歩くな。
夜勤や残業がありそうだから不可能だ。むしろその時間帯がメインかもしれない。
その二。曰く、怪とは関わるな。
この街で厄介事を起こすのは大体が怪であり、この事務所は厄介事を収めるのを仕事としているらしいから不可能だ。
その三。曰く、それがヒトであったとしても、他者に手を差し伸べるな。
怪が引き起こした事件の被害者は大体が人間だから、これも不可能だ。
ものの見事に全滅。役満ってやつだ。
「ま、くよくよしててもしょうがないか」
両手で頬を挟むように叩き、立ち上がる。
僕は生来、呑気なほうだと自覚している。いつも心のどこかで、どんなことがあってもどうにかなるものだと思っているから。
スマホを取り出してメールチェックをする。
「――!? あっ」
FROM:夏奈深雪
おはよう、絢十さん。もう、京に着いている頃でしょうか。もしもそうなら、昨夜は空を見上げましたか? 満点の星空が、とても綺麗な夜でした。同じ空を見上げてくれていたら、少し嬉しいです。それと、一週間も返事が出せず、心配をかけてしまってごめんなさい。携帯電話が壊れてしまい、カーテンの外に発注していました。だから届くのが遅くなってしまったの。これが新しい携帯電話での最初のメールです。けれどこの一週間で、わたしはとある病気に罹ってしまったようです。お医者様の診断では、怪の撒き散らした瘴気が原因らしいのですが。しばらくは逢えそうにありません。どうか絢十さんもお体に気をつけてくださいね。それでは、また。
――ナツユキ拝
「瘴気って何だろう? 医者って書いてあるから病気か? もしかして、それもあってメールが遅れてたのかな」
ナツユキ、大丈夫なのかな。あとで冬乃に聞いてみよう。
僕は早速メールの返事を送り、彼女が無事だったという安堵で、ぐったりとソファにもたれかかった。だけど、不思議と活力が湧いてきた。
「よしっ、今日も頑張るぞっ」
無人の事務所を出てひび割れた階段を上がり、自分に宛がわれた部屋の扉を開けた。事務所で眠っていたのは、ここにはまだベッドも布団もなかったからだ。明日には課長が手配してくれる算段になっている。
洗面所で顔を洗い、東京から持ってきた服に袖を通す。ちなみに昨日着ていたものは、昨夜のうちに洗濯して屋上に干しておいた。
冷蔵庫を開ける。電気コードはまだ挿していないし、当然ながら何も入っていない。
「う~ん、お腹空いたなぁ」
ちょっと怖いけれど、露店で買い食いをしようにも財布の中はカラッポだ。給料日っていつだろう。
「邪魔するでー」
「わあっ!?」
耳元に吐息がかかるような距離で聞こえた声に驚いて肩を跳ね上げると、うしろには日向冬乃が立っていた。
赤鬼の怪。重機並みの怪力の持ち主だが、とてもそうは見えない。肌は白く華奢で、声は透き通るように綺麗で、優しげな切れ長の瞳は少しだけ細められていて。
その距離があまりに近いものだから、僕は急に照れ臭くなって冷蔵庫に背中を預けた。
溶岩のように輝く赤い髪を少し揺らして、冬乃が小首を傾げた。
「ん? どしたん?」
「え、あ、いきなりだったから」
冬乃がにっこり呟く。
「いややわぁ、水くさい。うちら、今さらそんな関係とちゃうやん」
その言葉に僕が眉をひそめると、冬乃はハッと気づいたかのように、わたわたと手を前にして振った。
「ちゃう、ちゃうちゃう。そういう意味とちゃうから勘違いせんとってや。なんや、ほら、あの~……戦友?」
「昨日の僕は、ぶん殴られて無様に吹っ飛んだだけだし……」
まだ殴られた肩口がジンジンと痛い。だから嫌な夢を見たんだ。派手にぶっ飛んだわりには、骨に異常はなさそうだけれど。殴られたというよりも、押しのけられたのかもしれない。
「わああっ、ごめんごめんて! そんな泣きそうな顔せんとって! ほら、ほら、おむすび握ってきたから!」
見れば、彼女の手には小さなバスケットが提げられていた。
「うわっ、冬乃さんマジ天使……」
冬乃の顔がパッと輝いた。
「せやろ~!? ほら、座って座って!」
冬乃はそれを地べたに置いて、ぺたりとその場に腰を下ろし、僕にも手招きをした。
地べたに置いたのは、この部屋にはテーブルも椅子もないからだろう。ハイキングみたいで、ちょっと楽しいかもしれない。
僕は彼女の向かいに腰を下ろし、胡座をかいた。
「食べよ、な? ほら、絢十の好きなおかかやで」
冬乃が二つのおむすびのうち、一つを僕に差し出してくれた。僕はそれを受け取りながら、違和感に気づく。
「……あれ? どうして僕がおかか好きって知ってるの?」
ほんの一瞬だけ冬乃の動きが止まり、次の瞬間には苦笑いで口を開く。
「あんた、昨日ゴミ袋の中漁ってたとき、真っ先に鰹節に手伸ばしてたやん。これはまるで高級なお吸い物のアドリア海や~、とか、危ない目ぇしてブツクサ妄言吐きながら」
そこまで言ってない。断じて。
「うぅ、もう忘れてください、冬乃さん」
「はーい。忘れま~すっ」
邪気のない笑顔で元気に返事をして、冬乃はおいしそうにおむすびを口に入れた。なんだか彼女、凄く楽しそうだ。彼氏とか友達、いないのかな。
「あ、そうや。絢十って二十歳やんな」
「うん。東京では大学に行ってた。今は休学中だけど」
「そっか。もうちょい若く見えるけどな」
「あはは、ガキっぽいって、よく言われる」
「うち、絢十より年下やから、敬称略でええよ」
やっぱりそうか。若く見えていたから、成人はしていないと思っていたけれど、社会人として働いていたから万が一とも思っていた。考えてみれば京にはもう学校なんて存在しないのだから、十代から働くのはあたりまえなのかもしれない。
「うん。わかった」
そう言っておむすびに歯を立てた瞬間、その凄まじい噛み応えに驚く。米が立っているとか、弾力があるとか、コシがあるとか、アルデンテでしたとか、そういった食物レベルの感想ではない。
硬い。まるでゴムボールだ。嫌がらせか。
よく見れば、米の一粒一粒が全部潰れてしまっていて、餅状になっていた。
唖然として、おむすびを眺める僕に、冬乃がハッと気づいたかのように口を開け、一瞬にして茹で上がったロブスターのような顔色になった。
「ご、ごめん! 硬かった? うち、いつものクセで鬼の力で握ってしもた……」
なるほど。納得した。拳大の大きさではあるが、怪力で圧縮されすぎて鈍器化したというわけらしい。
「ち、ちなみに、これ一つで何合あるの?」
「二合半か三合くらい……」
おおう……。
恥ずかしそうに声を消し、うつむく冬乃。なんだか少し可愛らしく見えてしまって、僕は意を決して手の中のおむすびに歯を立てた。
もがぁあ。
まるでマンガ肉でも食い千切るかのように、弾力あるおむすびを噛み切り、呑み込む。
「あ、絢十、無理せんでええから残して」
一口で、もうそこそこ腹は膨れた。けれど、二口、三口と食べ進め、ついには食べきる。
おむすび一つとは思えないくらい満腹だ。胃袋が真冬の花火大会を開催したがっている。
「……ぐふ、ごちそうさま。おいしかったよ」
格好をつけたわけじゃない。これは嘘偽りない気持ちだ。
一週間の空腹に比べれば、好物のおかかのおむすびだ。ちょっとくらい量が多いからって、どうってことない。ましてや冬乃のような美少女が握ってくれたと考えると、まさに据え膳食わぬは男の恥だろう。
「あ、ありがとう」
失敗した羞恥のためか、冬乃が顔を真っ赤に染めて小さく呟く。
「こっちこそ、ありがとう! お腹減ってたんだよ!」
「う、うん……」
少し惚けた表情で、冬乃は素直にうなずいた。こうして見ていると、とても昨日と同一人物の赤鬼には見えない。
こんなことを考えるとナツユキには悪いけれど、冬乃はとても綺麗な容姿なのに、中身や仕草は可愛らしい。部分的には怖いけれど。いや、全体的に怖くて部分的に可愛い、が正しいか。割合は八対二だ。どうでもいいか。
「あ、そうだ、ちょっと訊いてもいいかな?」
「あ、うん、なんでも訊いて。教えられることやったら、教えるから」
「今日、ナツユキ……じゃない、夏奈深雪からメールが来てたんだけど、その中に知らない言葉があってさ」
一瞬、冬乃が視線を逸らした。僕は構わず続ける。
「瘴気ってなにか知ってる?」
「一部の上位の怪が放つ、悪い空気のことや。人間でいうところの、特効薬のないウィルスに近いもんかな。そういうふうに空間ごと持っていくようなバケモノが、ごく稀に京に顕現するんよ。夏奈深雪、瘴気にやられたん?」
「うん、そうみたいだ。だからしばらく逢えないって。大丈夫かな?」
冬乃が何かを考える素振りを見せて、視線を上げた。
「怪の種族にもよるけど、放っといたら二十四時間で死に至るようなんもあるで」
「え……」
息を呑む僕に、あわてて冬乃が続けた。
「あ、メール来たんやったら、それは心配ないよ。その瘴気の場合は、感染と同時に仮死状態になるから。その他の瘴気なら、若くて体力さえあれば対症療法で乗り切れると思う。だから、そんなに危険なもんとちゃうよ。せいぜい吐き気が止まらんとか、全身が痺れるとか、そんな程度。ただ、感染者に接触したら伝染してしまう種類もあるから、気ぃつけなあかんけど」
僕は胸を撫で下ろす。今のところ、ナツユキに危険はなさそうだ。
十年ぶりだから一刻も早く逢いたかったけれど、これじゃ仕方がないか。
「まあ、長引くことは多いけど大丈夫や」
「そっか。ありがとう」
まっすぐな視線で礼を言うと、冬乃はまた照れたように頬を搔きながら視線を逸らした。
「……どういたしまして。ほんで、こっちも一つだけ訊かせてもろてもええかな?」
僕はうなずく。
「僕にこたえられることなら。ここに来て一週間だから、そう多くはないと思うけど」
冬乃が口を開き、言葉を出さないまま閉ざした。頬を赤く染め、視線を逸らす。数秒後、意を決したようにもう一度口を開けた。
「……絢十はさ、夏奈深雪のこと好きなん……?」