混沌なりしは京の都(まち) ④
動かない。頭部をつかまれたまま、冬乃の両足はアスファルトに吸いついているかのように微動だにしていなかったのだ。
人狼の表情が歪む。
「ぬ……ぐぎ……? く……っ、……ど、どうなってやがんだ、てめ……!?」
全力で力を振り絞っているように見えるのに、冬乃の肉体を一ミリずらすことすらできていない。
頭を振って立ち上がりながら、無意識に、僕は口から言葉を洩らしていた。
「た、体重が異常に重い!?」
その瞬間、豪腕に頭部をつかまれたまま、冬乃が首をギギギとこちらに向けた。少女が般若の形相で唇を動かす。
「……おまえ、わりとマジで殺すぞ……。両足でアスファルトつかんどるだけや! うちの体重は林檎一個分や!」
「スミマセン」
謝った。
謝るしかない。
もはや目の前の光景は、理解の範囲外だ。
「ぐ……、ふざけるなッ!!」
それは生物的上位種としての矜持だったのだろうか。
人狼が牙を剥き、丸太のような腕を持ち上げて冬乃の側頭部へと薙ぎ払った。
「冬――!」
およそ生物の肉体から発せられたものとは思えぬほどの、肉の弾ける轟音が鳴り響き、冬乃の赤髪がパッと舞う。
人狼の瞳が見開かれ、僕は我が目を疑った。
「な――ッ!?」
なぜなら豪腕に打ちつけられたはずの日向冬乃は、吹っ飛ばされるどころか最初の位置から一歩も動くことなく、その透き通るような赤い瞳で平然と人狼を睨み上げていたのだから。呑気に、乱れた赤髪に手櫛なんかを入れながら。
あ、あり得ない……。
「さて、と」
直後、冬乃が右足を軽く持ち上げて、アスファルトへと叩き下ろす。ただそれだけだ。
しかしその瞬間、轟音を伴う震動と同時に冬乃の足元からは四方八方に亀裂が走った。人狼と冬乃の身体がわずかに沈む。
「うおっ!? ――な……なな……」
人狼が思わず冬乃から視線を外し、後退った。その表情は、あきらかに先ほどまでとは違っていた。目を見開き大口を開け、混乱しているのが見て取れる。
冬乃はコートのポケットに両手を入れたまま、平然と人狼との距離を詰めてゆく。
「ちゃんと払えや」
「あ、ああ?」
察しの悪さに舌打ちをした冬乃が、再び右足を持ち上げて地面を踏んだ。
大地が上下し、アスファルトの亀裂が一層広がる。
人狼の全身がビクっと震えた。先ほどまでとは別の意味で、体毛が逆立っている。
「あんたが魚屋の魚、食うたんやろ。賭はうちの勝ちや。そやから払え言うてんねん」
「は、はい! そそそそれはもうあの……でも、へへ……俺、金持ってなくて……」
冬乃が右足を持ち上げて、さらに地面を踏む。
大地が上下して、僕と人狼、そして野次馬たち全員の身体がわずかに浮いて落ちた。亀裂の入っていたアスファルトが、めくれ上がって砕け散る。
……理解できない。どうやら僕の頭は、思考することを放棄してしまったようだ。
もはやこの場で、言葉を発するものは誰もいない。冬乃を除いて。
「何をヘラヘラ笑ってんの。お金ないんやったら、あんたのその立派な生皮剥いで売ったってもええんやで? そういう暴力的なん嫌やろ? うちも野蛮なことしたないねん」
かつて、これほど説得力のない説得があっただろうか。
これじゃただの脅迫だ。
「は、はははい。で、でではどうしたら……?」
ゴッと音が響き、またしても冬乃の一踏みで地盤が沈下する。
「働くしかないわなあ。あの魚屋の猫かて、自分で鴨川から魚獲って売っとんねんで? 猫って水嫌いやのに、あいつは頑張っとんねん。――な、魚屋?」
いつの間に始めたのか、両手で抱えていた箱に、野次馬から大量にお札を集めていた猫娘が振り返った。
「にゃ?」
「おまえ、何やっとんねん……」
「……ワンコが鬼っこちゃんを動かせるかどうかの賭をですにゃ……。一口千円から……」
逞しい。凄まじい生活力だ。
あからさまに舌打ちをして、冬乃が人狼に視線を戻した。
「見てみい。あいつも、ああやって真面目に生きとんねん!」
いや、その理論には無理がある。違法賭博の元締めは、仕事ではない。
「とにかく! 金が稼げんかったら、物々交換でもええと思うで。――な、魚屋?」
「もももちろん! うちは人間、怪問わず、市民に優しい優良企業ですからにゃ!」
なぜか敬礼している猫娘。
「それになあ、ケンカって、やったらアカンことやんか? 警察さんにまで迷惑かけてからに。見てみい、警察やのに大の大人がまだ泣いとるやないの。腕も変な方向に曲がってもうとるし。謝って?」
「あ、あ、はい! わ、わわ悪いことをしたなと、今は深く反省しています!」
「うちに謝ってどないすんねん、ボケェッ!! 考える脳みそないんやったら、その飾りみたいなドタマ踏み潰したろかィッ!!」
……あの地面破壊のあとでは、恐ろしい恫喝だ。
人狼が「ひっ」と息を呑んで、あわてて放置車両の屋根で腰砕けになっていた警察官の前で土下座した。
「投げ飛ばして、すんません! も、もう二度としません! ――というわけで、俺はもうこのへんで~……」
「待たんかい。うちの相方も、あんたにどつかれとんねん」
あ、ぼ、僕?
もはや二足歩行すら忘れ、人狼が大急ぎでこっちに駆け寄ってきた。そして両膝と両手をついて、頭を地面にこすりつける。
「つ、ついカッとなってやってしまいました! すんません!」
「う、うん……」
「じゃ、じゃあ、もう帰りますね」
立ち上がり、野次馬の流れに乗って自分も立ち去ろうとした人狼の態度に、冬乃が再び右足を上げた。直後、先ほどまでとは比べものにならないほどの震動が響き渡り、付近一帯のビルがわずかに揺れた。
人狼は立ち止まり、猫娘は髭まで逆立て、警察官は袖で涙を拭う。
「終わったらこっち戻って来んかィ!」
「はぁ~い、ただいま戻りまぁ~す」
立派な尾を丸めてヘコヘコと頭を下げながら戻ってきた人狼をジェスチャーだけでその場に座らせ、冬乃は視線の高さを合わせてから半眼になって睨む。
「もう一回同じことしたら、今度はタマというタマをかち割るで。アタマァ~、メダマァ~、ほんで最終的には~?」
壊れた電池式の玩具のように、人狼が首をガクガクと縦に振った。前足で股間を押さえながら。
「……あ、あんた……何……者……?」
冬乃が片手を腰にあて、もう片方の手の親指で、自らをビシっと指さす。
「京都多種族安全機構所属、赤鬼の日向冬乃や。この名前、よ~ぉ覚えときや? この界隈で安機に逆らうっちゅーことが、どういうことか」
「お、お、鬼? 冬乃さん、鬼の怪だったの……?」
偶然、僕と人狼の言葉がぴったりと重なった。冬乃が僕を振り返って、首を傾げた。
「さっき言うたやん。みんなからは鬼っこって呼ばれてるでって」
鬼って性格のことじゃなかったのねっ!?
ほんの一瞬、冬乃が半眼になって僕を睨みつけてきた。
「……おい、あんた今、失礼なこと考えんかったか?」
「め、めめめっそーもございません!」
僕は必死で顔を左右に振った。一瞬にして汗が引いた瞬間だった。
「一応言うとくけど、ただの鬼ちゃうで。鬼神って言われる神格の種族や。半分ほど人間混ざっとるけど、神様でもあんねんからな? あんまり罰当たりなこと考えたらアカンよ?」
神格。最上位の怪の言葉に、僕と人狼は同時に白目を剥いた。
冬乃が、その唇を狼の耳へと近づける。そうして、そよ風にさえ掻き消されそうなほどの小さな声で囁いた。
「よし、ほなそろそろ罰の時間や」
「へひ!? あ、謝ればゆるしてくれるんじゃないのかよ!?」
逃げだそうとした人狼の頭髪をむんずとつかみ、冬乃が最高の笑みを浮かべた。
「こらこら、何言うてんの。多少なりとも償わせな、同じこと繰り返すドアホが多すぎるからな。罪には罰を、や」
それって俗に言うところの、見せしめ、というものではないだろうか。
「よっしゃ、魚屋、おまえも来い。うちのこと肴にしてギャンブルした罰や」
「にゃ!? あ、あたしも!?」
猫娘の魚屋がびくっと震え、お札の入った箱を取り落とした。
恐る恐る振り返ったその顔からは、玉のような汗が滴っている。
「喧嘩両成敗。うちが来んかったら、おまえ、本気でこのワンコをずたずたにしてたやろ。人狼がなんぼ怪力やいうても、おまえくらい年季の入った猫人には爪も牙もあたらんやろうしな。仕事は大事やけど、お金のために他の怪や人間を傷つけたらあかんよ」
それが真実なら、冬乃は猫娘ではなく、本当は人狼のほうを救ったということだろうか。
「にゃあ~……」
――数分後。
縛られた二体の怪が七条大橋から仲よく逆さ吊りにされていた。遙か眼下の鴨川は、今日も太陽を反射させながら穏やかに流れている。
「よしっと。ほな、一時間ほどで引き上げに来たるから。これからどうするか、ちゃんと二体で話し合いや。喧嘩してたら次はロープ切るからな」
それはやめてあげて!
両手をぱちぱちと叩いて、冬乃が事務所へと向けて引き上げていった。
すっかり争う意欲を失ったらしい二体が、ぶらぶら風に揺れるロープで絡まり合いながら悲しげに嘆く。
「……くぅ~ん……」
「……にゃ~ん……」
僕はそんな彼らを眺めながら考えていた。
京都多種族安全機構。まったくもって安全ではない。看板に偽りアリだ。
このバイトは辞めよう……。
◇ ◇
ああ、ああ、赤鬼だなんて正直に名乗るんじゃなかった。
やっぱりわたし、怖がられてる。
事務所に帰ってきてからというもの、絢十はソファに座って不動のままで、完全に固まってしまった。余計なひと言はもちろん、口さえ開かないもの。
いつこの仕事を辞めるって言い出そうか、タイミングを計るのに必死になっている顔だ。
嫌。だめ、それは困る。やっと逢えたのだから。
「絢十。えっと、お茶飲む?」
絢十がねじ切れんばかりに首を左右に振った。
「い、いや、僕は……その……えっと、やっぱり――」
言わせない!
「あ~っと! 珈琲のほうがよかった!? 紅茶もあるし、ジュースも牛乳もカルキ入り水道水もあるで!」
「いや、そんなことより――」
言わせない!
「知ってる? スポドリに牛乳混ぜたらカルピスになんねんで! 味だけ! 乳酸菌おるんか知らんけど!」
「知ら――」
絶対、言わせない!
「あと、関係あれへんけどホットカルピスな! あれってどう思う!? 熱湯で乳酸菌皆殺しにしてから飲んでるわけやし、意味あれへんと思わんっ!? 乳酸菌らの悲鳴が聞こえてくるようやわ! ムゴいわぁ!」
「…………何言ってんの、冬乃さん?」
自分でもわかりません。
「だからうちはいつもぬるま湯で作るねん! 飲む? ほら、できた! もうできたで! はい、どうぞ!」
うわあ、あからさまにドン引きしてる顔だ。
それでも絢十は手を伸ばして、わたしの作ったヌルいホットカルピスのマグカップを受け取ってくれた。
両手で受け取り、温度を確かめるように顔を近づけてから、そのまま一口。
こ、こいつ、飲み方が可愛い。発情してしまいそう。
「乳酸菌は死骸であっても、残った乳酸と乳糖が腸内善玉菌を増やす手助けをしてくれるんだよ。だから、完全に効果がなくなるわけじゃないよ」
「あ、そーなんや。絢十は物知りやなあ」
「キミよりは年上だからね」
「うちの年齢知ってんの?」
「十代後半くらいじゃないの? 高校生ってところかな」
しばし考えたあと、わたしは誤魔化すことにした。
「まあ、そんなとこかな。京都やし、高校は存在してへんけど」
しばらく、二人してホットカルピスを飲む。会話が途切れてしまった。
このままじゃだめ。言われてしまう。
やがて飲み干したマグカップを、絢十が硝子テーブルに静かに置いた。ゆっくり顔が上がってゆく。
「あのさ、僕考えたんだけど、やっぱりこのバイトは――って何してんの?」
だめ、だめ、だめー! 聞かない、絶対聞かない!
目を閉じて耳を塞いで無意味に叫び声をあげようとしたまさにその瞬間、事務所のドアがガチャリと音を立てて開いた。
活動報告に植田亮さんのラフを載せさせてもらいました。
よかったら見てみてください。