愁いの魔人は想いを託す③
◇ ◇
京阪祇園四条駅跡で右折し、八坂神社を超えて円山公園を歩いてゆく。
こんな時代にあっても、花見の客はちらほら見える。
どこの物好きが管理しているのかは知らないが、普段は雑草や藪で地面すら見えないというのに、この季節になればいつの間にか草刈りが行われていて足場ができる。自生できないソメイヨシノの接ぎ木もされている。
そうしてヒトも怪も共に酒をあおり、肴を食べ、薄桃色の花を眺めながら宴会を楽しむ。むろんそれでも、夜まで続く宴会はほとんどないのだけれど。
ここはもう、安機のお膝元ではないのだから。
大崩壊の夜から万年桜と化した一際大きな一重白彼岸枝垂桜は、ソメイヨシノなどの中央にあっても、その存在感を失うことはない。ヒトも怪も問わず神格視しているためか、花見の客も遠巻きにしか近づかないのだ。
それほどまでに荘厳――。
だが、近づく。この男は近づくのだ。なんの躊躇いもなく。
万年桜に近づいた暁時人は、足を止めて眉を顰めた。
「……いねえのか? ……いや……」
万年桜を取り巻く空気が変わっている。
万年桜から、桜の精と呼ばれた少女の気配が消えているのだ。約束を破り続けてきたのだから、罵倒される覚悟くらいはしてきたのだけれど。
一重白彼岸枝垂桜は、ただ静かに風に揺れている。
「そうか……。絢十が……」
絢十が、咲良と呼ばれた女学生のことを調べていたことは知っていた。けれど、どうにもできないものとばかりに思っていた。彼女の願いを叶えてやることなど誰にもできやしないのだと、そう考えていた。
刻の幻聴は聞こえない。
約束は、果たされた――。
暁は長い息を吐いて、狂い咲く万年桜へと手を伸ばす。
彼女は自らを桜の精だと称していたが、暁時人はすでに知っていた。咲良は大崩壊の夜に犠牲となった、ただのどこにでもいる少女の霊であることを。
万年桜の古びた幹に片手をあて、静かに囁く。
「ようやく逝けたのかよ、咲良。……悪かったなあ、約束を守ってやれなくてよ」
死神姫と旧安機の事件解決に次いで、ここでも絢十が――。
これまで十数年をかけても成し遂げられなかったことが、ふらりと京を訪れた、いかにも頼りなさそうな青年の手によって次々と成し遂げられてゆく。
だが、悔しさはない。不思議な魅力を持った男だと、いつもそう思う。
「ったく、あの野郎。報告くれえしやがれってんだ。万年桜を殺さずして咲良だけを逝かせる方法なんざ、安機始まって以来の貴重な記録になるだろうが」
事件ではなかったからか。いいや、違う。おれに気を遣いやがったのさ、あいつは。
暁はため息をついて、口元だけに笑みを浮かべた。
春の強い風が吹いて、花びらが一斉に散った。けれども、この万年桜だけは散ったあとにも蕾を宿し、すぐに花びらをつける。何が起ころうとも生命を主張し続ける。
暁はハットを片手で押さえて、愛おしそうに幹を撫でた。
「よお、咲良。どうだったよ、あいつは? いい男だったろう。ガキみてえなおめえのことだ。惚れちまったんじゃねえかあ?」
当然、一重白彼岸枝垂桜は何もこたえない。ただ静かに、花びらを風に乗せるだけだ。
ふ~んだ、意地悪なヒトとは口を利かないことにしているんだっ。
そんな声が聞こえた気がした。
しばらくそうして瞳を閉じ、暁は再び東へと歩き出す。
「じゃあな。近えうちに今の安機を全員連れてきてやるよ」
枝が揺れて、花びらが高く舞い上がった。
嬉しそうに、楽しそうに。そんなふうに見えてしまうのは、少々都合がよすぎるだろうか。
その様子を横目で眺めながら口元に笑みを浮かべ、暁時人は歩き続ける。円山公園を抜けて、今はもうほとんど無人となった寺院の密集した地区を歩いてゆく。
進行方向を見上げれば、虹色に輝く指向性電磁波のカーテンが聳え立っている。
それでも、暁時人の足は止まらない。迷いなく、まっすぐ、まっすぐ。
もはやヒトどころか怪ですら決して近づかぬカーテンへと向かって、胸の高さにまで伸びた雑草を踏みしめ、完全に森と化してしまった坂道を一人進む。
やがて、無秩序に生えていた植物さえも見られなくなる頃、わずかに空間が震え出す。目の前数十メートル先には、すでにオーロラのようなカーテンがある。
地中奥深くから、はるか上空まで。怪をこの地に閉じ込めておくために日本政府が設置した指向性電磁波の、死の壁。
直視すべきではない。
ヒトはもちろん生半な怪であっても、決して近づかない。あれに触れた瞬間に肉体の水分は沸騰し、皮膚は溶けて肉は爛れ落ちる。数秒後にはミイラのできあがりだ。
それは、彼の死神姫“虚ろなる首”とて例外ではなかった。
――例外では、なかったのだ。
「……悪ィなァ、これ以上は進めねえ。ここらが限界だ」
かろうじて雑草が残る位置で足を止め、暁はその場に腰を下ろした。胡座をかき、一升瓶の栓を抜いてから一口だけ煽る。
うまい。すっきりとしているのにコクがある。鼻に抜ける甘い香りは他に類をみない。
「上出来だ。――飲めよ! おめえが知りたかった味だぜ、陽次!」
そうして残りを、虹色に輝くカーテンのなかを目がけて投げた。
一升瓶は空中で回転して酒を撒き散らしながら、カーテンのなかへと吸い込まれてゆく。やがて瓶の砕ける音が響いた。
◇ ◇
雨が降っていたことはおぼえている。
忘れもしない、十二年前の今日だ。安機の事件ファイルを見直す気にもならねえ。
――時人と呑む酒は、うまいな。
あいつは照れたように笑いながらそう言った。馬鹿を言え、言われたほうが照れくせえよ。そういうことは黙っとくもんだ。
二十年前のクソッタレな大崩壊の夜を生き抜き、まるでゴミを隔離するかのように十四年前に政府に敷かれたカーテンを、ともに苦々しく見つめてきた男。
志月陽次。
旧京都多種族安全機構、構成員。京では生態系最下層であるヒトの身でありながら、魔都を守るために戦って散っていった、おれなんかとは違うホンモノの英雄だ。
バカみてえにお人好しで、恥も外聞もなく人前ですぐに涙を流しちまうようなやつで、いつも損な役回りばかり進んでやっていやがった。邪魔くせえどこぞのガキの世話から、戦闘となりゃ先陣を切って走ってやがったのさ。
あいつは手の届く距離にいるやつらの血と涙を、てめえ自身が肩代わりすることで、すべて止めようとしていやがったんだ。それでくたばってりゃ世話もねえ。馬鹿な野郎だ。
てめえにだって生きて果たすべき目的はあったはずなのによ。
志月陽次はいつも、安機の紋様の入ったオーカーのコートを誇らしげに着ていた。
当時はまだ安機もできたてで概ねの活動方針しか決まっていなかったし、おれはまだ警察に籍を置いていて、いつもその無力さに歯がゆい思いをしていた。
法律では縛ることのできない相手。
肉体性能で人間をはるかに凌駕する相手。
拳銃程度では殺せない相手。
そんなやつらばかりを取り締まろうとしていたのだから当然だ。当時、年上だが同僚だった山本刃八には、散々当たり散らして迷惑をかけたもんだった。
結局無力な警察を飛び出したおれは、知己の陽次を頼って京都多種族安全機構という探偵じみた活動をしていた小さな新規の組織に身を置くことで、食いつなぐことにした。
だが、京都多種族安全機構はおれが当初考えていた以上に有力な組織だった。これまで手のつけようのなかった怪を取り締まれるようになったんだ。
それもそのはず。陽次のような人間には拳銃(レンの弓)があるし、構成員には、問題と思われていた怪すら含まれていたのだから。
当初は怪の構成員に戸惑っていたおれも、すぐに馴染むことができた。
みんな気のいいやつらだったのさ。種族も性別も年齢も、この小さな組織には関係ねえ。ともに笑い、ともに食い、ともに戦い、助け合い、時代を駆けた。
バイトも同然のおれには安機に数挺しかない拳銃が回ってくることはなかったが、それでも不満に思うことはなかった。
安機でのおれの仕事は主に、かつての伝手を頼った警察組織との仲立ちにあった。
おれたちは警察と連携し、次々と凶悪事件を解決に導いた。
これまで怪の起こす犯罪では、苦汁のなかで後手に回るしかなかった警察組織が、ある程度とはいえかつての威光を取り戻せたのは、間違いなく京都多種族安全機構というこの小さな組織があったからだ。
警察はその組織力と捜査力で事件の真相を突き止め、そこから情報を受けた安機が解決に乗り出す。悪くない形だ。
おれが安機を手伝って警察と連携をさせることで、陽次たち安機のメンツが怪をスムーズに取り締まることができるのだという自負があった。少なくとも警察にいるよりは、ずっと自己満足に浸れた。
現に、その頃から京都多種族安全機構という組織は、急激に混沌の都で名声を広げ始めていた。
混沌の都。魔都。掃き溜め。動物園。様々な蔑称で呼ばれていたこの街に、ようやく光が射した気がした。
だが、その体制ができあがってわずか三年弱――。
そいつは突然降臨した。
次回で最終回です。
オーディオドラマ版『京都多種族安全機構』後編は、5月4日に放送されます。
(再放送は5月5日です)
前編は後編へのフリです。
よろしければ後編もご試聴のほど、よろしくお願いいたします。
http://www.agqr.jp/
追記
万年桜・咲良につきましては、書籍版短編「散らずの桜は京を視る」をお読みいただけると一層理解が深まるかと思います。
しかしながらこの短編は彼女の物語ではありませんので、未読の方も安心してどうぞ最後までおつきあいいただけると幸いです。




