愁いの魔人は想いを託す②
◇ ◇
鴨川に沿って師団街道を北上し、川端通へと入る。途中、純然たる人間ではあるものの、アライグマのような顔をした店主のクリーニング店に寄って、頼んでおいたスプリングコートを三着受け取った。
蜘蛛型の怪から抽出された防弾防刃繊維を使用したものだ。色はブラック、ホワイト、オーカー。いずれも背部に白の翼と黒の翼が重なった刺繍が施されている。京都多種族安全機構の紋様だ。
店主に見送られながら店を出た暁時人が、オーカーのコートだけを空に掲げ、瞳をわずかに細めた。口元を強く引き締めながら。
「……」
「お客さん、汚れでも残ってましたか?」
「いンや。そうじゃねえ。いい仕事してんぜ」
「はあ。またのご利用をお待ちしております」
暁時人は歩き出す。
オーカー。すなわち黄土色。かつてヒトの身で死神姫と相対し、散っていった友の色。いいや、オーカーだけではない。本来ならばブラックもホワイトも、先に逝った友の色だ。
鴨川のせせらぎが消えてゆく。革靴の足音も消えてゆく。
ちく、たく、ちく、たく――。
ああ、また幻聴が聞こえやがる。
川端通をさらに北上し、京阪七条駅跡前で古びた雑居ビルの階段を上がった。ノックをすることもなくドアを開く。錆びた蝶番が耳障りな音を鳴り響かせた。
「おーぅ」
「あ、課長。おはよーさん。五分遅刻やで。しっかりしてや、もう」
赤鬼の娘が早速顔をしかめて、指さしてきた。
「うわっ、酒持っとるし! 朝からやる気なしか!」
「朝っぱらからそう喧々(けんけん)言うな。こいつはおれが呑むんじゃねえよ。それに、遅刻はクリーニング店に寄ってたんだ。おめえらのコートじゃもう暑いだろ」
暁は半笑いで肩をすくめ、ホワイトのスプリングコートを赤鬼の娘に投げる。
「わっ、やった! 春コートや!」
赤鬼の娘は早速袖を通して、両腕を広げながら自らの身体を眺めた。
「ええやんええやん。サイズぴったりやわ。ありがとう、課長」
「ぴったりっておめえ、ほんっと成長止まってんだな。サイズは去年のままだからな」
「ふぐう……っ」
口元を押さえてソファに赤い髪をした鬼の娘が崩れ落ちた瞬間、キッチンの扉が開かれた。
「あ、おはようございます、暁課長」
「……はよ……はよ……」
一条絢十と、彼の肩に乗っている子狐の伊都那だ。絢十は珈琲を手に持っている。
「おーぅ。絢十」
オーカーのコートを投げると、絢十は珈琲を持っていないほうの手で受け止めた。
「スプリングコートだ。今日からそれを着ろ」
「はい。ありがとうございます」
鬼の娘と違って、ずいぶんと素直だ。そんなところが似てやがる。
ちく、たく、ちく、たく――。
ああ、まただ。
幻聴を振り払うように、暁時人は口を開けた。
「伊都那」
「……?」
「おめえもいるか? 一応レッドもあるが、どうする? 安機の制服みてえなもんだ」
子狐が絢十の肩から飛び降りて、二本の後ろ足で立ち上がった。しばらく考えるように口元に前足をあてたのち、二本の前足をピッと伸ばしてクルリと頭上で回転させる。
直後、炎色の瘴気が京都多種族安全機構の事務所内から爆発的に溢れ出す。もっとも、炎のように熱を発しているわけではないため、まぶしさに目を瞑れば問題はない。
やがて炎色の輝きが失われる頃、子狐の姿をしていた炎狐は、長く美しい金色の髪をした美女の妖弧へと変化していた。
伊都那は腰まである金色の髪を一掻きして狐の耳を出すと、赤色の着物の腰に片手をあてた。
「要らぬ。妾は京都多種族安全機構に忠義を誓ったのではない。無論、暁、お主にでもない。妾はあくまでも飼い主様に誓ったに過ぎぬ」
そう言って隣で珈琲を飲む絢十の肩にしな垂れかかる。あっという間に赤の着物は着崩れ、大きな胸で引っかかるように止まった。
「飼い主様が京都多種族安全機構に協力しておるうちは、妾も力を貸そうぞ。だが極論、敵対なぞしてみよ。妾がすべての力で以て、主らを殲滅しようぞ」
「こら、伊都那! 言い過ぎだよ。安機にはお世話になってるし、僕なんかじゃ微力だけど、京に平和をもたらす目的にも賛同してるから続けてるんだ。敵対なんてするわけないだろ」
絢十が睨みながら金色の頭に軽く手刀を落とすと、伊都那がキュっと目を瞑ってうなだれた。
「すみません、課長。今のは――」
しかし絢十の言葉を遮るように、暁は口を開く。
「奇遇だなァ、伊都那。おれもそう考えてるぜ」
煙草を一本取り出して口に咥え、オイルライターで先に火を灯す。毒の煙を深く吸い込み、ヤニですっかり黒ずんだ天井へとゆっくりと吐き出した。
「ふー……」
空間が、存在するはずもない重量で圧し潰されてゆく。
低く、低く。黒く、黒く。決して固まらないコールタールに沈んだ世界から、二つの視線だけが浮かび上がり、神格の怪、赤い着物の妖弧や鬼の娘ですらも呑み込んで。
そうして暁時人はギョロリと瞳を見開き、誰にともなく呟く。
「…………そのコートを着ているやつぁ、もう二度と誰も死なせねえ……。……たとえ敵が京都多種族安全機構の構成員であってもだ……」
鬼の娘は暁を凝視したまま息を止めていた。妖弧は全身を粟立てて額から汗を垂らした。
おそらく無意識だろう。赤い着物の裾からはみ出した裸足が、わずかに後退する。己に向けられた殺意ではないとわかっていてさえ、怖じたのだ。
「だから心配すんな」
「う、うむ……。ならば良い……」
もう終わったのだ。何を犠牲にしても果たすつもりだった旧安機の復讐劇は。
この手はようやく黒幕に届いた。他ならぬ、オーカーのコートを偶然継いだこの青年の手を借りることによって。
終わったのだ。何もかも。
しかし――。
暁時人は、先ほどとは一変した眠そうな視線を一条絢十へと向ける。
「んあ? どうかしました?」
「……ああ、いや。おれも一杯もらっていいか? 寝不足で眠くてなァ。昨夜は女が寝かせてくんなくてよ」
「課長、絢十にセクハラせんとってよ! その人、うちのやねんからなッ!? 課長かていつまでも不特定多数とふらふら遊び歩いてんと、ちゃんと自分の相手見つけたらええねん!」
鬼の娘がすかさず噛みつく。
「おめえも、誰彼かまわずヤキモチ妬いてんじゃねえよ。四六時中そうやって怒ってっから胸の成長止まんだ。悔しかったら伊都那みてえに女性ホルモン垂れ流してみろ」
「ふぐぅ……っ! ……言い過ぎやん……絶対言い過ぎやん……」
赤髪の娘が涙目で口許を押さえ、再びソファに崩れ落ちる。
「……このクソオヤジ。京都やなかったらセクハラで訴えたんのに……」
「はっは! 残念だったな。ここは司法もクソもねえ魔都京都だ」
「くう~……!」
しかし不思議だ。
あれだけ殺気を放ったというのに絢十はただ一人、飄々とした顔で珈琲を呑気にすすっていた。単に鈍いだけなのか、肝が据わっているのか、よくわからない。
そんなところも似ている。かつてオーカーのコートをまとっていた友に。彼らはともに、捉えどころのない風のような存在だ。
「じゃあ僕、淹れてきます。ナツユキと伊都那は、いる?」
「あ、うち珈琲牛乳お願い。牛乳わっさ~入れといて。頑張って絢十のために成長するから」
「妾はミルクだけでよい。異国のものはどうにも口に合わぬ」
赤鬼の娘、夏奈深雪がくわっと瞳を見開いて、伊都那の胸をぱしぱしと片手で叩いた。
「それか! それの差ぁなんか、これは! ――絢十、やっぱりうちも牛乳だけでええわ! 珈琲いらん!」
「いた、痛たたた、これ、莫迦力でそうパシパシ叩くでないっ。痛いではないか、鬼の子よ」
揺れる胸を両腕で覆って、伊都那が苦言を呈する。
「あ、ごっめ~ん。つい破裂するまで叩いてまうとこやったわ」
「……おぬし……それほどまでに胸を気にして……」
あわてて絢十が口を開く。
「僕はそのままの大きさでもいいと思うんだけどな。触ったら柔らかいし、気持ちいいし」
「そんなん言うてくれんのん凄い嬉しいねんけど、ええねん! うちもう、あの煙草と加齢臭でクッサイことになっとるオッサンにバカにされたないねん!」
それまでニヤニヤとした笑みを浮かべながら紫煙を吐いていた暁だったが、思わぬ反撃に表情を曇らせる。
「……待て、鬼っこ。今のは言い過ぎだろ……。……おれだって傷つくんだぞ……」
ただ一人、楽しげに笑って、青年はキッチンへと消えて行った。
時計の音は……聞こえない。
◇ ◇
依頼が来ない。
いつもであれば、午前九時を過ぎたとたんに鳴り始める黒電話は、今日は沈黙を保ったままだ。
絢十は来客用のソファの中心に腰を下ろしたまま、片手に持った文庫本に視線を落としている。その膝には金色の髪の妖弧が頭を乗せて寝息を立てていて、逆側の隣では絢十の肩にもたれかかった赤鬼の娘が、本日七杯目のホットミルクを啜っている。
「うぐう、お腹たぽんたぽんや……」
「おめえ、乳が出る前に腹が出るんじゃねえの?」
「もー! うっさいねん、課長!」
中心にいる絢十は、さすがに少々居心地が悪そうだ。もっとも、それでも彼女らをはね除けないところが、この青年の良いところでもあるのだが。だからこそ、余計な苦労を背負い込むのだ。
なのに、少し笑って。
「ほどほどにしときなよ、ナツユキ。お腹壊すよ」
「う、うん。絢十がそう言うんやったら……」
暁時人は、デスクに足を投げ出したまま眠そうな瞳で時計を眺めた。
すでに依頼のピークとなる時間は過ぎ、昼に近づき始めている。電話線が切れていることも疑ってはみたが、受話器を上げて携帯電話にかけてみたところ、無事に繋がった。
死神姫の一件以来、京の犯罪率はわずかに低下した。
おそらくは老紳士“忌まわしき叡智”と死神姫“虚ろなる首”という絶対悪を、京に潜む小悪党どもが目にしたからだ。さぞや己が矮小なる存在と思い知らされたことだろう。鬼の力を目の当たりにして牙を抜かれた人狼のようなものだ。
もっとも、この魔都では、そのような効果など数ヶ月も保てば良いほうだが。
ちょうどいい――。
暁時人は長い足をデスクから下ろして立ち上がる。コート掛けからコートとハットを取って身につけ、胸部ホルスターに拳銃があることを確認した。
「……ちょっくら出てくる。携帯の電源は入れておくから、手に負えんことがあればすぐに連絡を寄こせ」
絢十が文庫本から視線を上げた。
「あ、はい。わかりました」
「せっかく依頼もないのにどこ行くん? ゆっくり身体休めるチャンスやのに。今日は課長が夜勤やねんから、ちょっと寝ときや。依頼来たら起こしたるから」
夏奈深雪が心配そうに眉をひそめて呟いた。その彼女の目の前で、暁時人はデスクに置いてあった日本酒の瓶を手に取る。
「バ~カ。寝てどうする。こういうときこそ息を抜く機会だろうが」
小指を立てて笑ってやると、予想通りの反応が返ってきた。
「また女かいな! ええ加減にしいや! 一応勤務時間内やで!」
「勤務先のソファでイチャイチャしてるおめえらにだけは言われたくねえんだが」
赤鬼が赤面する。
「う、う、うちが退いたら、伊都那が絢十のこと独り占めしよるやんかぁ! アホォ!」
逃げるように肩をすくめて廊下に出て、事務所のドアを閉ざす。
そうして一升瓶を肩に担ぎ、鼻唄交じりにコンクリートの階段を下って、鴨川沿いの川端通を北上した。
昼間の川端通には、昼食時の買い物に来る主婦を目当てに露店が並ぶ。
ここらに露店が多い理由は、京都多種族安全機構の事務所が近いからだ。つまり、安機のお膝元では事件が起こりにくい。だから平和を好む怪や凶暴な怪を恐れるヒトは、老若男女問わず京阪七条駅跡へと集まってくる。
自然と活気が溢れ、賑わいも出てくる。
「ちわっす、暁さん。食べてくかい? なかなか上物の鰊が入っとるで」
「ほう、そいつは悪かねえが、まだ昼にゃちと早ええよ」
威勢のよい蕎麦屋の屋台の主人におざなりに手を挙げて、立ち止まらずに歩き続ける。
人を避けながらしばらく歩いていると、布面積の少ない扇情的な服装の女が、いつの間にか横に立って歩いていることに気がついた。
「とっきひっとさん!」
と言っても、彼女の頭部には熊の耳がある。熊人のデミ・ヒューマンだ。種族特性が出ているのか、全体的に若干ぽっちゃりしている。もっとも、高野川近辺に棲む、賢老と呼ばれる老いた熊人と比べれば、そのサイズは半分以下だ。デミとオリジナルの違いなのだろう。
両手に買い物袋を提げていることから、早めの昼休憩といったところか。
「よう。くま子」
「だ~れがくま子ですかあ! 種族に子を付けて安直に女の子を呼ぶクセ、やめたほうがいいですよぉ? ユミ姐さん怒ってましたもん。二人のときは名前で呼んでくれるのに、人前じゃ未だにトラ子だって」
暁が顔をしかめて片手を頭に乗せた。
「かっ、普段ろくに喋りもしねえクセに、余計なことだけ言いやがる」
「あははっ、あいかわらず仲良しさんですねぇ。うらやましいなあ~」
くま子が歩きながら暁の右腕に両手を絡めて、誘惑するように身を寄せた。
「でもでもぉ、そんなことよりぃ、時々はお店に顔を出してくださいよぉ。ユミ姐さんにはナイショにしときますからぁ」
くま子が暁の腕を揺すって鴨川の対岸、店のある北西方向を指さした。
「ほらほら、今から今から。酒瓶持ってふらふら歩いてるくらいだし、今日は時間あるんでしょう~?」
店。つまりマダム・スワロフスキーの娼館だ。マダムはこの街で孤児を集めて住居を提供する反面、一定の齢の達した者には性別種族を問わず客を取らせる。混沌の都には人間はもちろんのこと様々な種族の怪が棲んでいるため、ほとんどあぶれる者はいない。
当然違法行為ではあるが、マダム・スワロフスキーを責めるつもりはない。それで助かる幼い生命があまりに多いし、何より性犯罪の抑止にもなっている。今では安機はもちろんのこと、警察も黙認状態だ。
懐かしい場所だと、暁は考える。
「そのうちな」
すぽっと腕を引っこ抜き、後ろ手を振りながら歩き出す。
「今日はちぃとばかし忙しいのさ」
「そのうちそのうちって、ユミ姐さんが店からいなくなってからは、一度も来てくれないじゃないですかぁ~!」
「ま、そのうちな」
背中を丸めてコートのポケットに両腕を入れ、足早に歩く。
「も~~~!」
しばらく進むと、今度は幼い声がかかった。
「あ! あんきのおっちゃんやっ」
エプロン姿の犬人に連れられた人間の子供が駆け寄ってくる。目の前に回り込まれて、暁は思わず足を止めた。
「おう、ボウズ。元気だったか? もう一人で夜にふらふらするんじゃねえぞ」
「もうしてへんよっ」
犬人の母親が慌てて追いかけてきて、子供の手をつかむ。
「こら~、走ったらまた迷子になるでしょ!」
彼らに血の繋がりはない。変わり者のオリジナルが、捨てられていたヒトの子を拾って育てているだけだ。犬人の母親から聞いた話では、赤子の頃に空き地に置き去りにされていたらしい。親の姿はなかったそうだ。
混沌の都であっても異種の親子というのは極めて珍しいことだが、犬人という種は怪のなかでもとりわけ情が深いから、放ってはおけなかったのだろう。
運が良かったのだ、この子は。そしてその運は、少女だった頃の人虎の女にはなかった。
「すみません、暁さん。もう安機の皆さんにはご迷惑をおかけしないように、ちゃんと言って聞かせますから」
苦笑いで呟く犬人の母親に、暁は笑いかける。
「いいさ。それがおれたちの仕事だ。だが、夜は危険だ。また誘拐されねえとも限らんし、誘拐で済めばまだ御の字だ。わかるな?」
「ええ、承知しています。大丈夫。今度は目を離さずに見ていますから。耳も鼻も健在です」
力強くうなずく母親に、暁は小さくうなずいた。
「ならいいさ。――ボウズ、誘拐された日にした約束、おぼえてるか?」
「うん、おぼえとるで!」
犬人の母親が怪訝な顔つきで首を傾げる。
「約束? お母さんそれ知らんよ?」
「なんでもねえよ。男同士の話だ。気にすんな」
「うん。母ちゃんにはいわん。おっちゃんと、やくそくしたからなっ」
「おう。男の約束だ」
子供と視線を合わせて、同時に悪戯顔で笑みを浮かべた。
「え~……」
先月、本当の親を捜しに旅立とうとしたヒトの子と交わした約束はただ一つ。
おまえさんが本当の母ちゃんをいつ捜しに行くかは自由だが、今の母ちゃんを大切に思っているなら、二度と泣かせるようなことだけはするんじゃない。
幼い彼なりに色々考えた結果、今は犬人のもとに留まることに決めたのだろう。こんな時代のこんな街だ。それでいいと思う。明日のことなど誰にもわからない。
暁は大きな掌を子供の頭に乗せた。
「いい男に成長したじゃねえか。じゃあ、またな」
「うん、またなー、おっちゃん!」
そうして後ろ手を振り、異種の親子を置いて再び歩き出す。
約束か……。
だが、同時に約束というものは呪縛でもある。
ちく、たく、ちく、たく――。
急げ、急げと、聞こえ始めた幻聴に、暁時人は顔をしかめる。
「わかってるよ……」
WEBラジオ、文化放送でオーディオドラマ版『京都多種族安全機構』を昨日聞き逃してしまった方へ。
本日、4月28日13時に再放送されます。
http://www.agqr.jp/
ドラマは前後編に分かれておりますが、前編は後編へのフリです。
後編の放送日は5月5日、再放送が5月6日となります。よろしければ後編まで是非ともご試聴のほど、よろしくお願いいたします。




