愁いの魔人は想いを託す①
夢を見なくなったのは、いつ頃からだったか。
ちく、たく、ちく、たく――。
期待を他者に求めなくなったのは、いつ頃からだったか。
ちく、たく、ちく、たく――。
京都駅を破壊して神樹が生えた日か? 違う。
ちく、たく、ちく、たく――。
京都が混沌の都へと姿を変えた大崩壊の夜か? 違う。
ちく、たく、ちく、たく――。
時計の音がうるさい。秒を刻むアナログ時計など、この部屋には一つたりとも存在していないというのに。
なのに、音はいつも男を急かす。急かすのだ。早く、早くと。
「少しは微睡めたか……」
また、あまり眠れなかった。
片手を額にあて、男は身を起こす。上半身から薄い布団が滑り落ちた。
痩せぎすに見えるほどに無駄なものをすべて削ぎ落とした肉体が、わずかに軋む。
掌に視線を落とす。
いつものように疲れはあるが、機能に支障を来すほどではない。だが、こんな生活を続けていられるのもヒトの身ではあと数年が限界だろう。肉体の絶頂期など、とうの昔に過ぎ去っている。
願わくば――。
願わくばその刻が訪れるまでに、政府が怪を恐れて京都の周囲に設置した、あの忌々しい指向性電磁波のカーテンを取り除いておきたいものだ。
「ん……」
薄い掛け布団がめくられたからだろう。隣にうつ伏せで眠っていた女が、肘を立てて指で瞳を擦った。敷き布団で潰れていた形の良い乳房を隠そうともせず。
金色と黒の入り交じった髪からは、ヒトのものではない耳が生えている。
「起こしちまったか」
「……」
女はゆっくり首を左右に振った。
否定ではない。けれども、気にするな、と。
無口な女だった。よほど感情が高ぶりでもせぬ限り、言葉を出すことはない。ああ、他者を思いやるときには、わずかに言葉を吐くこともあるけれど。それも気まぐれだ。
猫科豹属では、それもやむなしといったところか。
女がゆっくり身を起こす。
「……ん……」
黄色と黒の髪を片手で掻き上げると、昨夜の匂いがした。
女もそれに気づいたのだろう。小さなあくびをしながら立ち上がり、枕元の窓をわずかに開けた。
籠もった室内へと、まだ少し冷たい春の風が優しく吹き込む。
男に負けぬほどの長身に、生命力溢れる引き締まった肉体。一糸まとわぬ裸身を惜しげもなくさらして、腰から生えた金色と黒の長い尾を揺らしながら。
人虎――。
無数の怪が闊歩する混沌の都にあってさえ、ただ一体のみの稀少なデミ・ヒューマン。
突然彼女に遭遇すれば誰もが息を呑み、立ち尽くす。密林の奥深くで野生の虎に出くわしてしまったかのような感覚に陥って。大多数はそれを恐怖と感じるが、ごく稀に、それを感動とする変わり者もいる。
そして、この男は女を恐れたことはない。初対面から、ただの一度たりともだ。
下着を身につけ、シャツを着込む姿を何気なく見つめる。男の視線に気づいた人虎の女が、彼に背を向けて長いスカートを穿いた。
そうして視線だけで男を急かす。
「……わかったよ」
男が立ち上がると同時に人虎の女は布団を軽々と持ち上げて、六畳間の押し入れに運び入れる。
この怪だらけの混沌の都にあって、力なら、おそらく二番目。鬼の娘に次ぐ二番目だ。
男は洗面台で顔を洗い、鏡に映り込む自分を見つめる。
目の下の隈は、わずかに薄れた。有望な新人どものおかげだ。髭は、そうだな。まだいいか。あまり無精髭を伸ばしすぎると、だらしがないと鬼の娘がうるさい。人虎の女は、そんなことには何も触れやしないのに。
シャツに袖を通すうち、小さな台所からは根菜を切る小気味良い包丁の音と、鯵の焼ける匂いが漂ってきた。
「朝っぱらから海産物とは、ずいぶんと豪勢だな、ユミ」
「……」
包丁を止めてわずかに振り返り、ユミと呼ばれた人虎の女が、クスっと笑った。
感謝してくれてもいいのよ。とでも言わんばかりに。
おそらくは仕事の仕入れ先に、たまたま入った上物だろう。
ユミの仕事は酔っ払いの相手。屋台のおでん屋だ。鰹節や昆布は欠かせない。けれど保存の利くそれらは、手に入れようと思えばほとんどがいつでも買うことができる。
だが、この魔都京都において、海の生ものとなると話が変わってくる。なぜなら指向性電磁波のカーテンが囲った地域には海がないからだ。それらはカーテンの外からの輸入に頼るより他ない。
保存の利く鰹節や昆布といった乾物とはわけが違う。
炊きたての白米に、根菜の味噌汁、壬生菜と油揚げの酢味噌和えに、鯵の塩焼き。
「うまそうだ」
「……」
ユミが目を閉じて大きな胸を張る。
わたしの作ったものがおいしくなかったことなんて、一度もないでしょう?
言葉には出していない。にもかかわらず男は言葉で返す。
「そうだな」
ともに食卓につき、ともに手を合わせ、ともにいただく。
「いただきます」
「……」
言葉すらほとんどない、静かな食卓。疲れた男が、最も好む時間。
いつからだったか。この女に生活の大半を預けるようになったのは。
鯵の背に箸を入れると、ぱりっと焦げた皮が破れた。箸先で身を解してゆく。白い湯気が立って、食欲を刺激する香りがいっそう強く食卓を包み込む。
酒でもあれば最高なのだが、などと不埒なことを考えた。
だが、さすがに勤務前に一杯引っかけて行ったのでは鬼の娘に叱られる。絢十ならば笑って済ませてくれるだろうが。
「くく」
「……?」
「いや、なんでもねえ。ちょっと、な」
食事や床を同じくしても、籍は入れていない。そんな紙キレの契約など、魔都と化した京都では意味がない。そもそも毎日のように死者不明者の続出するこの都市にあっては、戸籍など有って無きようなものなのだから。
「あいつが安機に迷い込んでから、状況がおもしろくなった。おぼえてるか? おまえの屋台に一度連れてった若えやつだ。一条絢十って名前のな」
ユミが静かにうなずく。そして、相好を崩した。その唇が、わずかに開く。
「………………さくら…………」
「ん?」
「…………かわいい……」
男は知らない。人虎の女は、それ以外にも一度、枝垂桜の精を連れた一条絢十と接触を持っていたことを。
だが、ユミの笑顔を見ただけで、男は満足げにうなずく。
この歳の離れた人虎の女が、怪となった今でも心の底から笑えるなら、それでいいと。
米粒の一つまで箸でつまみ、口に運ぶ。すべてを平らげて、男は合掌した。
「ごちそうさん」
まだ食べ終えていないユミが箸を置いて、静かにうなずく。
「さ~てと。行ってくらあ」
同時に立ち上がり、男は長いコートを羽織ってハットを被った。障子を開けて廊下を歩くと、人虎の女が静かについてきた。
いつものことだ。見送りなど不要と言っているのに。
男が革靴に足を入れると、ユミは靴篦を差し出す。
「今夜は夜勤だ。おまえは帰るなりここにいるなり好きにしろ。明後日の夜には戻る」
「……」
ユミがうなずく。
寂しそうな顔をすると、いつも振り向いて思う。
「夜、時間ができれば屋台に顔は出す。どのみち晩飯は必要だからな」
またうなずく。
わずかに機嫌が直ったか。ほとんど無表情だが、なんとなくわかる。
「ではな」
去りかけたとき、ユミが静かに声を出した。
「………………時人…………」
一度は背中を向けた暁時人が振り返り、廊下に膝をついた人虎の女の頭に手を置いた。
「心配すんな。何年安機やってると思ってやがる」
彼女はこの混沌の都においても、他を圧倒するほどの力を持った怪だ。妖力こそないものの、その脚力は猫人にも勝り、その牙は決して砕けることなく、その膂力は覚醒前であれば鬼神にも勝る。
だが――脆い。精神が弱い。
誰かを支え、誰かに支えられなければ立つことすら困難だ。
しかしこれは珍しいことではない。この街では、何も背負っていない者を捜すことのほうが、よほど難しいのだから。道行くほとんどの者が、あの大崩壊の夜を経験したのだから。
ドアを開けて、ふと思い出す。今日は特別な日だ。
「ユミ、酒を一本もらえるか?」
「……? …………仕事……」
「いーんだよ。こいつぁ、おれが呑むわけじゃねえからな」
「……熊……?」
暁は少しだけ口ごもり、言葉を慎重に選びながら静かに呟く。
「いんや。熊爺じゃねえ。だが古ィ友人だ。心配すんな、男だよ」
ユミが平然と、顔の前でぱたぱたと手を振った。
「……してない……」
「しろよ。ちょっとくらい。こう見えて女には結構好かれるんだぜ、おれ」
両手を腰にあてた人虎の女が、ふん、と鼻息を吐いた。けれどすぐに微笑み、台所に戻って床下収納から日本酒の一升瓶を取ってきた。
ラベルはない。銘のない酒だ。
日本酒なのにフルーティ。密造人ユミさんお手製の密造酒。
こいつに勝る酒は、今の京都には存在していないと暁は考える。
「あんがとよ」
そうして、遠い瞳で。
「……きっと喜ぶぜ」
書籍版の短編「散らずの桜は京を視る」をお読みいただけていると、いっそう人物像に深みを感じられる内容となっています。
もちろん「桜」未読の方も楽しめる内容としておりますのでご安心ください。
追記
WEBラジオ、文化放送でオーディオドラマ版『京都多種族安全機構』が4月27日と5月4日に放送されます。(再放送は4月28日、5月5日)
http://www.agqr.jp/
ドラマは前後編に分かれておりますが、前編はフリです。
よければ後編まで是非ともご試聴よろしくお願いいたします。
 




