知らずの猫は迷い込む④
◇ ◇
そして――。
そして、あの日がやってきた。
大崩壊の夜。
障子を開けた窓の外。
神樹がすべての果実を産み落として、多くの悲鳴がこだました。京都の各地で炎と黒煙が上がり、混乱した日本政府のおかげで、この夜は自衛隊が怪に銃口を向けることさえなかった。
女の子は震えながら障子を閉めた。顔色はかつてないほどに青白く、唇は血の気を失って。
その両手で茶虎の猫を抱きしめていた。
窓の外、すぐ近くで悲鳴と怪の息づかいが聞こえた。閉ざされた障子の向こう側、窓に大量の液体が飛散する。たぶん、血だ。
あたしには何もできない。
やがて建物が揺れて、鍵の掛かった扉が砕かれたかのような音がした。
何かが来る。壁を削りながら進んでいるかのような、耳障りな音が廊下から響いている。
逃げて、逃げて、逃げて、何度も叫んだ。
その声が届くことはなかった。
だから言ったのに! だから言ったのに! だから言ったのに!
あたしは一人と一匹の前に立ちはだかって、両手の爪を限界まで伸ばした。
戦うのは得意じゃない。好きでもない。逃げるのは得意だ。でも逃げたくない。なんかさ、この一人と一匹を死なせたくなかったんさ。
ううん、このヒトを死なせたくなかったんさ。もうわかったよ。わかっちまったのさ。
心臓が痛いくらいに鼓動を刻む。意識して呼吸をしなければ、息を止めてしまいそうになる。
襖が折り紙のように薙ぎ払われて、そいつが姿を現した。そいつは人狼のラルなんかよりもよっぽど大きくて、得体の知れない姿をしていた。肉体サイズがでかすぎて、廊下の壁を肩で削りながらここまで歩いてきたんさ。
先手必勝。
狭いところから出られたら、自由に動かれる。けれど、今ならあたしの爪からは逃げられない。
「フーーーーーーーーーッ!!」
牙を剥いて、両手の爪を弓のように引き絞り、あたしは畳を蹴った。部屋に踏み込もうと藻掻くそいつの首筋へと、あたしは両方の爪を振り抜く。
手応えナシ。ああ、やっぱりね。そうだよね。
あたしはよくわからない怪の身体を突き抜けて、廊下の壁に全身をぶつけた。
そいつが両肩を揺すり、ゆっくり、ゆっくりと部屋へと首を入れてゆく。女の子は悲鳴すら上げられないほどに脅えて。
無駄とわかっていたのに、あたしは無我夢中でそいつの全身を爪で引っ掻きまくった。けれど、空気や水を切った程度の手応えさえなくて。
ああ、ダメだ。まただ。またダメなんだ。
叫んだ。届かぬ声で、声の限りに、ただ叫んだ。
その瞬間さ。気のせいかもしんないけど、女の子と視線が合ったと感じたのは。
「――ッ!」
女の子は恐ろしい怪に睨まれながらも、熊爺のボロ布を拾い上げて自分の後ろに投げた。
あたしは意図を理解した。彼女の意図を理解したんだ。
猫ならではの瞬発力で得体の知れない怪の身体を突っ切って、熊爺のボロ布を空中で受ける。そうして、彼女のすぐ背後。脅えながらも背中を丸めて牙を剥いていた猫に被せ、あたしはその上に覆い被さったのさ。
あたしは猫に触れないけれど、ボロ布はどうやらそうじゃないらしいから。
そして――。
そしてその直後に女の子は引き裂かれ、――死んだ。
熊爺のボロ布のなかで猫は大暴れしていた。けれどあたしは猫を放さなかった。得体の知れない怪は、猫には気づかずに障子と窓を突き破って外に出ると、そのまま立ち去っていった。無惨に引き裂かれた女の子の肉体の一部を、口に咥えて引きずりながら。
あたしは彼女の遺体に向かって、揺れる声で呟いていた。
「ごめんにゃあ。ごめんにゃあ。あのとき――あのとき、あたしが猫じゃなくて、ヒトや狼だったら、あんたを守れたのかにゃあ……」
あの夜。
大崩壊の夜に考えたことと同じことを、今、あたしは口に出して呟く。
「もっと頭がよかったら、もっと腕に力があったら、もっと足が速かったら、あんたを抱えて逃げられたのかにゃあ……。もっと爪が長かったら、もっと牙が鋭かったら、あいつをやっつけられたのかにゃあ……」
助けてもらったのに助けられなかった、あの夜。すべてを失った記憶から逃げた、あの夜。
少しばかり手遅れになってから、あたしは望み通りに猫人へと変異した。
飼い主だった少女の血のぬくもりを、全身に感じながら。
◇ ◇
「魚屋!」
「おい、社長! 聞こえてんのかよ!」
うっすらと瞳を開ける。涙、頬を伝って。
あんれまあ。どいつもこいつも、マヌケヅラが揃いも揃って。
絢十ちんに鬼っこちゃん。あたしの腹の上に乗っかってんのは伊都ニャンか。で、どでかい影を落としているのは人狼のラルだ。
「あいよ~、ま~いど」
あたしは周囲を見回す。みんなが大きなため息をついた。
京都多種族安全機構の事務所のソファだ。
暁時人が自分のデスクに長~い足を放っぽり出して、シケモクの紫煙を吐き出している。
「僕らがわかる?」
絢十ちんがあまりに真剣な表情でそんなことを尋ねてくるものだから、つい反射的にあたしも真剣な表情になって、こたえてしまった。
「あんた誰さ?」
「さ、魚屋……記憶が……」
「冗談! 冗談さね、絢十ちん。そんな顔しなくても、この通りぴんぴんしてるよ」
ごん、と頭の上に衝撃が起こって、あたしは首を曲げた。
「ふぎゃっ!! な、何すんのさ、鬼っこちゃん!」
赤い髪に赤い瞳。半人半鬼の鬼っこちゃんが、額に血管を浮かべてあたしを睨んでいた。
「あんたなあ、みんなもっそい心配しててんで! それやのにしょうもない悪戯しよって!」
「心配? にゃんで?」
「おぼえてない? 僕が高野川まで迎えに行った帰り道、突然魚屋が倒れたんだよ。で、あっという間に仮死状態になっちゃって、大急ぎで安機に運んだんだ」
仮死状態……ねえ……。あ~んまし時間も経ってなさそーだなー……。
「原因もわからんから、さっきまでほんまにあかん思っててんからなっ」
「ほへえ、そうなんだ」
「そしたらついさっき、キミがいきなり涙を流し始めたから……」
ああ、そっか。
あたしは頬を伝う涙をごしごし拭き取って起き上がり、身体を伸ばした。はずみで転がった伊都ニャンが、ベッドから落ちて床に着地する。
「おいこら、社長。もうちょい寝てろ」
あたしの倍以上はあろうかって体長した人狼が、あたしの胸を押さえてソファに押しつけた。
「ふぎゃ! どさくさで胸触んなあ!」
「わかったからおとなしくしろ、このバカ社長が。絢十に迷惑かけやがって。ったく」
「……なんさ! このバカ社員! あ~んた、売り上げくすねてないだろうね!」
「へっ、さーな」
ラルが腰に両手をあてて、似合わないエプロンに包まれた胸を張りながら悪そうな笑みを浮かべた。
だからこそ、わかるんさ。ああ、こりゃあしてないなって。
このワンコったら、自分が素直じゃないからこそ、わかりやすいってことに気づいてないんだよねえ。可愛いやつ。にゃひひ。
暁時人が大あくびをして、デスクから足を下ろした。
「おーぅ。目ぇ覚ましたみてえだし、おれは先に帰るぜ。夜勤はよろしく頼むわ、鬼っこ」
「はいはい。お疲れさん、課長」
鬼っこちゃんがおざなりに暁時人に言うと、絢十ちんと伊都ニャンがぺこっと暁に頭を下げた。
「お疲れ様です」
「……お……おーつ……」
「あいよ。おめーらも、疲れが出ねえうちに跳ねろよ。じゃーな」
長い黒のコートを羽織って、暁が事務所のドアから出て行った。絢十ちんが苦笑いでドアを指さして、あたしに耳打ちをする。
「あれでも結構心配してたんだよ。目覚めるまでは帰る気配なかったし、場所もすぐに貸してくれたからね」
「ふーん」
あいにくと、猫はそんなことでは恩義など感じませ~ん。ま、暁だってあたしの性格くらいはよ~く知ってんだろうけどさ。
鬼っこちゃんがため息をついて、あたしに視線を向けてきた。
「魚屋、おまえ、なんか食えるか?」
「もらえるなら、にゃ~んでも。猫は案外雑食ですからにゃ。あ、カリカリキャットフードは勘弁して欲しいにゃ」
「はいはい。カリカリとか、安機が常備してるわけないやろ。じゃあ、絢十。うち、キッチンで消化に良さそうなもん作ってくるわ。仕事終わってんのに悪いんやけど、ちょっとの間だけ魚屋のこと看とってくれる?」
「うん、いいよ」
にっこり見つめ合っちゃってまあ。と、思ったら。
鬼っこちゃんが赤い瞳を細めて苦々しげに呟く。
「浮気したらあかんよ? ニャンニャン禁止な?」
「しないしない。浮気なんてしたこともない」
うわ~、平気な顔して嘘ついてるよ、この人。パツキン美女やセーラー服の女子高生は何さ。ねえ。言ってやろうか。人畜無害の顔してさあ。にゃんであたしだけ誘わんの?
「う~。うち、信じてるからな?」
「うん。課長が夜勤の金曜に、また泊まりに行くよ」
「ちょ――!? こ、こんなとこで言わんでええやん! もう知らん!」
あんれまあ。赤鬼がさらに真っ赤になっちゃってるよ。
どたばたと足音を立てて、鬼っこちゃんが逃げるようにキッチンへと走っていった。あたしはそれを見送って、ぬぼっと突っ立っている人狼に話しかける。
「ラールー? 悪いんだけどさ、明日は仕入れから店仕舞いまでお願いできる?」
「別に構わんぜ。ただし、明日の取り分は四・六だ」
「二・八!」
「三・七! 普段一・九なんだからこれ以上は譲らねえかんなっ! がめつすぎんぞ、社長!」
「あいあい、んじゃそれで。よろしくにゃ」
ラルが不承不承にうなずいて、絢十ちんに手を挙げた。
「ちょっくら行ってくら。絢十、悪いが社長のことを頼むぜ。こんなクサレ守銭奴でも、うちの社長だかんな。いねえと客が減る」
誰がクサレ守銭奴か。
「うん。ラルもお疲れ様。気をつけてね」
「へっ、この程度で人狼の俺様が疲れるわけねえだろっ」
不機嫌そうに吐き捨てたラルの尾は、しかし全力で左右に揺れている。
こいつ、ほんっとにわかりやすいな。つーか絢十ちんに懐きすぎ。これだからワンコロは尻軽なんさ。猫を見習え、猫を。
ラルが尻尾をふりふりしながら、どすどすと不機嫌そうに歩いてドアから出て行った。
さて、これでこの部屋にいるのはあたしと絢十ちん、そして伊都ニャンだけだ。伊都ニャンにはまあ、色々聞かれてもいいよね。怪ってよりゃあ、どっちかと言えば動物だし。
あたしが口を開こうとした瞬間、絢十ちんが先に言葉を出した。
「無事でよかったよ、魚屋。正直ヒヤッとした」
「ああ、うん。でもね、絢十ちん。たぶん危険はなかったんさ」
あそこら一帯に危険があったなら、きっと熊爺はあたしをちゃんと揺り動かして起こしてから帰っただろう。
熊爺は第一世代のオリジナル。誰よりも最初に生まれて、その頃からすでに老体だったとか。だからかもしんない。熊爺はずっとこの京を眺めてきた。怪にあるまじき、穏やかな瞳で。きっとさっきの現象のことも知っていたのだろう。
あたしに過去を思い出させるためかにゃー。
考えてみりゃ、最初っから出来すぎてたんさ。熊爺は寝ているあたしにボロ布を掛けてくれていた。そのボロ布だけが、あたしとあの世界とを繋いでくれていたんだからね。
返すときに確かめても、どうせはぐらかされるんだろうけどさ。
世にも愛らしい猫の子よってね。
「ねえ、魚屋。怖い夢でも見てたの?」
「にゃんで?」
絢十ちんがソファの肘置きに腰掛けて、あたしを覗き込んできた。
「さっき泣いてたじゃないか」
「んー。怖かったり、楽しかったり、優しかったり、悲しかったり、色々さ」
やば、思い出したらまた泣きそうだ。寝ながらの涙は見せても、起きているときの涙なんて見せられない。猫はプライドが高いんさ。
あたしは掛けられていたボロ布を引き上げて、顔を隠す。
「名前、わかりそうでわからなかったんさ……」
たぶん、絢十ちんには、これがなんのことかなんてサッパリわかんないんだろうけど。けれど絢十ちんは静かに返事をくれた。
「そっか」
「猫人のあたしは、何者でもなかった」
「うん」
「元々は猫だったけど、ヒトになりたかった」
「うん」
「猫だった頃のたった一人の友だちは、大崩壊で死んだ」
「そっか……」
「力がなくて、守れなかった。生命を助けてもらったのに、守れなかった」
「……うん」
「この身体と同じ姿してた」
「うん」
「たぶんあたし、猫だった自分と死んじゃった友だちの身体が混ざって猫人になった」
ボロ布の上から、頭を撫でられたのがわかった。
「記憶を失って、あの人のことも忘れて、のうのうと生きてきた。こんな姿、今さらもらったってもう遅いのに。必要だったあのときに、どうしてあたしはただの猫だったんだろう。あの人はもう死んだのにさ。なのにあたし、全部忘れて適当に生きてきた」
過去なんていらないと思っていた。こんなご時世のこんな街だ。別に、いつくたばったっていいと思っていた。今でもそう思っている。
大切なものはもうどこにもない。猫人として再生した時点で、すでに手遅れだったのさ。
あたしには……何もない。
けれど、なのに、絢十ちんは言うんさ。
「だったら魚屋はさ、二人分の生命を持って、猫から猫人に生まれ変わったんだね。その人はもうどこにもいないのかもしれないけれど、だけど、……ここにいるんじゃないかな」
そう言って、絢十ちんがあたしの胸をボロ布の上からトントンと叩いた。
「その人が混ざっているなら、大切にしなきゃね。その身体」
「………………うん、うん……そうだにゃ」
声、震えて裏返った。泣いてるのがバレたかもしんない。か~っちょ悪いったらありゃしない。
けれど、心地いいな、この人。バカバカしいくらい前向きで。
明日で最終回です。
 




