知らずの猫は迷い込む③
「あ……あの……」
力なく出た声が、自分のものだと気づくまでに数秒。けれど女の子はまるであたしなんて見えてもいないかのように部屋に入ってきて、行儀悪く足で襖を閉めた。
いや、違う。このコの両腕は塞がっている。茶虎の仔猫を抱いているから。
あたしはそのコに場所を譲るように、行灯の横へとずれる。
「そいつ、どうしたのさ?」
「……」
そのコはあたしを無視して、行灯の前にあった座布団に仔猫をそっと置いた。
「にゃ~んか、ぐったりしてんねえ? 生きてんの?」
「……」
そのコは何もこたえてくれなかったけれど、仔猫の胸は小さく上下している。けど、体毛は見窄らしくボロボロで、目なんて目ヤニで開いてもいない。身体も泥と傷で汚れている。
身体が弱くて、親に見捨てられたってところだろうね。何も珍しいことじゃあない。野良の世界と今の京都じゃ、猫に限らずよくあることさ。
「あのさあ、安機に持ってったら飼い主捜してくれるよん? 面倒ごとはぜ~んぶ安機に押しつけてやんのさ! 特に一条絢十ってやつはお人好しだから、断りゃしないよ? にゃは!」
真剣な表情で学生鞄から猫用のミルクを取り出したそのコに、あたしは顔を近づけて笑いかける。
うわ~、しっかし見れば見るほど、あたしに似てる。世にも愛らしいニンゲンちゃんだ。
世にも愛らしいニンゲンちゃんは、これまた鞄から取り出したプラスチックの平皿にミルクを注いだけれど、この仔猫にはもう自分から飲むだけの体力はないみたい。
「むりむり。安機に任せるか、さもなきゃ放っときなって」
あまり情けをかけすぎると、この魔都じゃ足元をすくわれかねない。仔猫だって、見た目で判断なんてできやしないのさ。ある日突然、尻尾が二股に分かれて、がぶっ、な~んてことだってあるかもしんにゃい。
「そぉ~んなことより、あたしは魚屋よろしくネ!」
「……」
「さっきから、にゃ~んであたしのこと無視するかなー!」
あたしは手を伸ばしてそのコの肩に触れようとして、――すり抜けた。
驚くあたしには目もくれず、女の子が小さく呟く。
「あかん、どないしよ……。飲んでくれへん……」
呆然とするあたしを置き去りにして、そのコは部屋を飛び出して行った。
何? 今の? ニンゲンじゃないの? あたしの声は聞こえてないの? 触れないし、こっちを認識できない怪なんて京都にいたかな? もしかして幽霊?
「んんん? 熊爺なら識ってるかもだけど、考えるだけ無駄かにゃあ」
仔猫と二人きりになって、あたしは何気なくそいつを見下ろす。
寒いのか小刻みに震えている。
あたしはため息をついて、熊爺のボロ布を肩から外して仔猫へと掛けてやった。もしかしたらすり抜けてしまうかと思ったけれど、ボロ布はちゃ~んと掛かっているようで、少し安心した。
震えを止めた仔猫の額を指でつつこうとしても、やはりすり抜ける。
「やっぱそーかあ。ま、いーや。ねえ、寒いから、あ~んたが死んだら返してもらうからにゃ?」
ああ、触れない理由にもう一つ仮定が浮かんだ。
あたし、もしかして死んでるぅ~? うっはぁ~、それだったらヤダな~。でも、死ぬようなことしてないしにゃあ~。絢十ちんも一緒だったし、貧弱なニンゲンとはいえ、あの瞬間に何かあったんなら助けてくれるはずさ。なんてったって安機だし?
その場に寝転がろうとした瞬間、ものすごい勢いで襖が開かれる。さっきの女の子だ。手には小さなほ乳瓶を持っている。
そのコは熊爺のボロ布を見て眉をひそめた。
「あれ? 誰か来たんやろか?」
「あたしあたしィ!」
「……まあええか。暖かそうやしね。せっかくやから使わせてもらおかな」
「うわっ、いいんだ? あ~んた意外と適当だねぇ。にゃっはっは」
やはりあたしの言葉は聞こえないようで、女の子はボロ布の端を仔猫に巻きつけて、そのままそっと抱き上げた。
ほ乳瓶の乳首を仔猫の口へと差し込む。。
「ほら、飲んで、おチビちゃん。飲まんと死んでまうんよ。がんばって」
「そうそ。飲め飲め。ガキンチョにゃオッパイパイがお似合いさ」
仔猫がわずかに喉を動かし始めた。
張り詰めていた少女の表情が、わずかに弛む。
「あ……、よかった……」
「うんうん、よかったにゃあ」
それからあたしは、しばらくここに留まって女の子と仔猫を見ていることにした。どうせ行き先もわかんないし、にゃんだかお腹も空かないし、外は寒いし。
気がかりは一つ。ラルのやつが稼いだ金を持って逃げやしないかってことくらいさ。ま、あたしが死んじまってるなら、そうしてもらっても、ぜ~んぜんかまやしないんだけどね。でもあいつ、案外バカだから、たぶん魚屋続けてくんだろうけどさ。
もうちょいと暖かくなったら、また歩こうかな~。
◇ ◇
夜明けが近くなり、しばらくすると不思議なことに気がついた。
障子を開けた窓の外の景色が、靄がかった川でも、大きな大きな橋でもなかったのさ。そいつぁ、見慣れてるようで見慣れていない、そんな景色だった。
鴨川はある。
けれど、樹木が少なく、そして小さい。アスファルトを割って生えている植物もなく、ニンゲンの数はいっぱいで、怪はいない。自動車ってやつが列なって走っている。動いているのを見るのは初めてだ。
遠くにゃ京都タワーが見えるから、間違いなく京都なんだろうけどさ。でも。
「神樹が……にゃい……」
京都駅の中央部を割って生えた、人類史上最大とされる生物。一夜にして京都タワーを覆ってしまうほどの高さにまで育ち、後に多くの怪を産み落として京都を混沌の都へと変えたあの木が、どこにもないんさ。
こりゃあまるで、魔都と化す前の京都だね。
「ま、いっか。か~えろっと。んじゃね、あんたたち」
あたしは障子の外側の窓を開け、窓枠に両足で跳び乗って――。
「ひゃ!」
体毛が逆立つ。あたしは背中から転がり落ちるように、大急ぎで室内へと戻った。
なくなっている。景色が。
窓から覗く景色は、靄がかった川らしきもの。そこには陽光すらなく、決して明けることのない夜が広がっていた。
「うへえ、あっぶな……」
念のために玄関からも出てみたけれど、その景色はやはり大きな橋だった。
「やっぱ迷い家かな~。こ~りゃまいったね。安機が迎えに来てくれるといーんだけど」
仕方なく屋敷に戻って、あたしはさっきの部屋を探した。やはりその一室だけが少し開いていて、すぐに見つけることができた。
「たっだっいま~。お早いおかえりですよ~」
二人はやっぱり反応を示さなかったけれど、さっきまでとは少し様子が違っていた。
仔猫がぴょんぴょん飛び跳ねている。目ヤニもなくなっているし、傷口も塞がっている。禿げた体毛は、少しだけ戻ったか。
あたしは置きっぱなしにされていた熊爺のボロ布を手にとって肩から巻きつけ、部屋の隅にしゃがんだ。綺麗に洗濯されたのか、ボロ布からは少しだけ、ニンゲンと仔猫と洗剤、そして太陽の匂いがした。
あたしが眠って目を覚ますたびに、仔猫は元気になっていった。仔猫はあたしの顔をした女の子にすごく懐いていた。
女の子には家族はいないみたい。あたしには見えないだけで、本当はいるのかもしれないと思ったけど、誰かが呼びに来るとか、誰かと話しているとか、それっぽい動作さえない。誰もこのコの名前を呼ばないものだから、結局名前はわかんないままさ。
あたしと一緒だ。誰かが呼んでくれなきゃ、名前なんてないも同然ってね。
一人と一匹はこの部屋で一緒の布団で眠り、一緒に食事を摂った。女の子が学校ってやつに行っている間だけ、仔猫は寂しそうに襖の前で佇んでいた。トイレの場所もおぼえた。な~んにもなかった部屋に、噛み痕だらけの玩具も増えた。
尻尾がカクカクしてる太った黄色いネズミのぬいぐるみや、耳のない太った青いネズミのぬいぐるみや、赤い服を着た痩せた黒いネズミのぬいぐるみ。その他、ネズミ。
ネズミばっかかよ。魚はないのかよ。よーよー。猫のこと舐めてんの?
いくつかは仔猫が噛みすぎてダメにしちゃったけどさ。女の子はそんなことじゃ怒りゃしない。
あたしは退屈だったから、この屋敷を探検した。この部屋以外は、ど~っこも襖が開かなかった。鍵なんてあるわけもないのにさ。これだから怪現象ってのは嫌なんさ。
理不尽理不尽理不尽、ずっこ~い!
一ヶ月も経てば、一人と一匹はすっかり家族してた。あたしだけ見えないもんだから、退屈は日に日に増してくばかりさ。
どれくらいの時間が流れたのかわからなくなったある日、ものすごい地震が起こった。
女の子は布団にくるまって、仔猫を抱いて震えていた。幸い建物は倒壊しなかったけど、あたしもちょっとチビった。
翌日、障子を開けたら外の世界に神樹が生えていた。窓を開けたら、や~っぱり靄がかった夜だったけどさ。
あたしは女の子に言った。
「ねーねー、さっさとチビちゃん連れて京都から逃げなよぅ? もーすぐすっごいことが起こるんさ。怪がわっさわさ湧いてきて、ニンゲンはいっぱい死んで、一部はニンゲンじゃいられなくなって……」
て、聞こえないんだよね。
あたしは膝を抱えて部屋の隅、定位置に座った。
ボロ布はもう、す~っかりおチビに取られちった。おチビのベッドは籠なんだけど、いつもそこで熊爺のボロ布にくるまって眠ってるんさ。
あ~あ~、寒い寒い。
ま、あたしは姿が見えないのをいいことに、女の子の布団に潜り込んで丸まってんだけどさ。
にっひっひ。あ~んた暖かいねえ。まるでお日様みたいさ。あたしがあんたに触れりゃ、もっとも~っと、暖かかったのかな。
また時間が経過した。
おチビがおチビじゃなくなってきた。あたしほどじゃないけどさ、毛並みはつやつや、元気ハツラツ、部屋ンなか走り回っちゃってさ。ありゃりゃ、畳で爪なんて研いじゃって。あのコが学校から帰ってきたら、ま~た叱られるよん?
でもさあ。あんたたち、いつになったら逃げるんさ……。
もうあまり時間はないよ……。だから……。
さらに時間は経過する。
神樹に果実がなった。あの日が確実に近づいている。
あたしはどうにか一人と一匹にそれを知らせようとして、女の子の学生鞄から紙とペンを取り出した。京都を捨てて逃げろ、と書こうとしたけれど、まるでインクが切れているかのように、紙は真っ白なままだった。鉛筆でも、シャープペンシルでも、それは同じで。
あたしはペンを叩きつけた。けれど誰にも気づかれることはなかった。
毎日毎日、事あるごとに話しかけた。
女の子だけじゃなくて、仔猫にも。けれども声は届かなかった。触ることさえできれば、実力行使でかっ攫いたかった。
でもさ、あたし、ここから出ることさえできないんだ。




