魂魄欲する異界の女神 ⑩
◇ ◇
まるで花火のように、旧京都駅から何千もの白いモヤが、夜空へと飛び去ってゆく。
「天網恢々疎にして漏らさず。……捜したぜ、十一年間もな」
暁時人は旧京都駅空中庭園の古びたベンチに一人座る年老いた紳士へと、まるで旧知の仲であるかのように歩み寄る。
「てめえを捕らえてから死神姫を討つつもりだったが、時間稼ぎのためにぶつけた若え部下に先を越されちまったよ」
庭園の植物は枯れ果て、しかし中央を貫く神樹の枝だけはコンクリートをも突き破り、天を貫くかの如くそそり立っている。
老いた紳士は白のモヤが飛び交う空を見上げたままだ。
暁時人は、言葉を続ける。
「死神姫――いや、異界の神“虚ろなる首”に囚われていた魂の花火だ。てめえの企みは潰えた」
紫煙がゆらゆらと立ち昇り、いつの間にか降り出した雪交じりの風に流されてゆく。
足音が止まった。年老いた紳士は、目の前で立ち止まった男に対して視線すら上げない。ただ、壁向こうの空中径路で繰り広げられた戦いの意外な結末に、目を見張るばかりだ。
「狐を騙して魂を集めさせ、そいつをエサに十一年前の死神姫を再び舞台上に引きずり出すたぁ、やってくれたじゃねえか。下手すりゃ京どころか関西一帯が――」
暁時人が、コートに隠されたホルスターから右手で拳銃を抜き、男のハットに銃口を押しあてた。
「――いや、てめえの立てた計画通り、“虚ろなる首”の瘴気で神樹が枯れていたら、ヒトも怪もなく、日本全土が滅んでいたとしても不思議じゃあなかった。なんせ神樹は、すべての神々の祖である天照大神の設置した、異界からの侵略を阻む生物兵器を生み出すための母体だからな」
年老いた紳士が初めて暁時人に視線を向けた。
「……ほう。これは驚いた。その兵器以下のヒトの身で、よくご存じで」
暁時人の声が、静かに沈み込む。低く、低く。
「覚悟はできてんだろうな、バケモノ。旧安機の仇は討たせてもらう」
しかしその言葉には何の反応も示さず、男は、しわがれた、だが力強さを感じさせる声を空中庭園に響かせた。
「あの少年は何者ですか? 神を屠るヒトなど、そうそう存在するものではない。……十一年前の英雄を除いて、ですが」
暁時人が咥えたタバコの先が赤く輝き、ジジっと小さな音を立てた。
「ヒトだよ。これ以上ないくらい普通のガキだ」
「腑に落ちませんねえ。たかが数十年しか生きられぬ薄弱なる生物の中に、あなたたちのような稀少な個体が、他にも存在するなどと」
暁時人は鼻で笑うと、タバコを持つ左手で自らのハットを押し上げた。
「阿呆が。勘違いするなよ、異界の神。俺たちは個体なんかじゃねえ」
紳士が小さな声で「ほう」と呟く。
「てめえら個体主義のバケモンとは違って、人類という種は数え切れない生と死を繰り返しながら、二〇〇万年の歴史と知恵を受け継ぎ、ここまで発展してきた。たかだか千や万を無為に生きただけの神ごときが、ヒトをあまりなめるな」
雪交じりの冷たい風が流れる。
しばしの沈黙のあと、男が相好を崩した。
「ふふ、ふははは。なるほど、なるほど。それは実におもしろい考え方です。ですが、お気をつけなさい。神に近づき過ぎた人類は言語を奪われ、その繋がりを絶たれた」
「バベルの塔か。だが、その時代に安機はいなかった」
暁時人は自信に満ちた瞳で、不敵に笑う。
「ふふ、まあ、いいでしょう。私の負けです。神とはいえ、ご覧の通り老いぼれの身。力なき私には、神殺しに抗う術などない。引き金を引くがいい、暁時人」
年老いた紳士が挑発的に見開いた瞳を暁時人へと向けて、含みを持たせて言い放つ。
「――大崩壊の年より連綿と続く京都多種族安全機構の歴史と知恵、そして正義を捨て去り、あなた自身が個体となる覚悟がおありなら、無抵抗な存在を討つがいい」
強い視線が混じり合う。
「さあ、どうかしたかね? 京都多種族安全機構、暁時人」
数秒後、暁時人の片目がわずかに痙攣した。忌々しげな表情でゆっくりと息を吐き、暁時人は拳銃をホルスターへと収める。
「おや? どうやら私は、貴方の痛いところを衝いてしまいましたか? 正義などという言葉に縛られていては、守れるものも守れませんよ」
「勘違いするな。おまえからはまだまだ聞きたいことがある。この会話や、俺のこの決断が、たとえおまえの描いたシナリオ通りであったとしてもだ。――異界の神“忌まわしき叡智”よ」
今度は老いた紳士の表情が変化する。
極めてわずか、凝視しなければわからないほどに。
「……ほう。私の真名を知った上で生かしておくということですか。本当におもしろい方ですね。私のチェス盤に乗っただけのことはある」
「立て。おまえは人類がその歴史の幕を引く瞬間まで、この第一級閉鎖指定地区の地下牢獄に収監する」
暁時人がコートの内ポケットから手錠を取り出し、“忌まわしき叡智”の両手を拘束した。
「呪術で強化した祭具の手錠だ。神格であっても破れんし、鍵は世界中のどこにも存在しねえ。逃げられるなどと努々思うなよ、バケモノ」
“忌まわしき叡智”は拘束された自らの両手に視線を落とし、愉しげに少し笑ってからゆっくりと立ち上がる。
――これだから、人類との遊戯はやめられぬ。




