魂魄欲する異界の女神 ⑨
僕は足を引きずりながら百貨店跡へと忍び込む。
伊都那の炎が至るところで踊っているためか、廃墟状態の百貨店内でも見えなくはない。かろうじて読み取れるフロアマップには、拉麺小路と書かれている。ここも人工物はすべて神樹に侵蝕されていた。
断続的に続く地響き、爆発、苦悶の悲鳴。店舗の壁を背中で粉砕して、赤鬼がフロアを転がり、跳ね上がる。そのまま着地と同時に間髪入れずフロアを蹴って、伊都那の熾した炎へと飛び込み、それを目隠しに死神姫へと殴りかかった。
「おまえさえいなければぁぁ――ッ!」
しかし死神姫は片腕を畳んで赤鬼の一撃を受け止め、フロアを滑る。別の店舗の厨房を背中で突き破って破壊し、それでも死神姫は赤鬼の眼球を狙って抜き手を返した。
「~~ッ!?」
紫色の爪の先が眼球を削り、ナツユキが声にならない悲鳴をあげて転がった。彼女を飛び越えて、全身に炎を宿した伊都那が死神姫へと踊りかかる。
燃え盛る拳をあてようと着物を翻し、いくつもの狐火を使って攻め続けるも、掠める様子すらない。
「……む……ぅ!」
死神姫は黒のドレスを翻してバック転で距離を取り、壁に張り巡らされていたパイプを引きちぎって回転させ、なおも追いすがった伊都那の腹部へとカウンターで突き刺した。
「かぁ――ッ!?」
貫かれた伊都那が、樹皮の溶けた神樹の幹へと背中から磔にされる。しかし伊都那にとどめを刺すべく腕を上げた死神姫の頬に、赤鬼の一撃が突き刺さった。
鬼の咆吼――!
空間を揺らし、あらゆる生物に恐怖を与えるその声の中、数十メートルの距離を吹っ飛ばされた死神姫がフロアを片手で叩いて跳ね上がり、おぞましい笑みを浮かべた。
楽しんでやがる。生命の奪い合いを。
彼女らの攻撃では致命傷を与えるのは難しい。おそらく物理的な攻撃は効きにくいんだ。生命そのものにダメージを与える拳銃をあてなければ、あのバケモノは止められない。
伊都那が自らの腹部を貫いたパイプを熱で溶解し、再び走り出す。狐火を先行させ、回避先に猛火を放つ。しかし死神姫は炎をものともせず、伊都那へと拳を放った。横から滑り込んできたナツユキが両手で死神姫の拳を逸らし、伊都那を抱えて大きく後退する。
「すまぬな、鬼の子」
「黙って、呼吸が乱れる!」
伊都那が両手を振った。死神姫の追撃を、九体の狐火が炎の壁となって防ぐ。
「おまけじゃ、受け取れい!」
伊都那が片手でプロパンガスのボンベを放り投げる。直後、ビルを揺るがすほどの爆発が起こり、僕は爆風に飛ばされてフロアに転がった。炎の通じない神樹を除いて、フロア全体が焦げついている。
死神姫は――健在。
さすがに爆風に押されたのか、先ほどよりも距離が広がった。顔を覆っていた焦げついた両腕に新たな瘴気を巻きつけ、厭らしい笑みを浮かべている。
僕は震える膝に手をあて、立ち上がった。
ここで倒れて眠ったとして、訪れる結果は最悪なものだ。
全員が、足を引きずりながら近づく僕に気づいていない。こちらに注意を払う余裕がないんだ。ましてや大怪我を負った人間が、そうまでして追ってくるなどと考えない。
好都合だ。たかがニンゲンと侮っていればいい。
「す~……」
息を吸い、ゆっくり吐く。破壊された柱や店舗の壁に身を隠し、近づいてゆく。
死神姫にも、見かけほどダメージがないとは思えない。左胸に風穴を空けた瞬間から、あいつは瘴気を体外に拡散させることをやめている。
先日、あいつは拳銃によって失われた片腕を、瘴気を肉体に変換させることで補填した。つまりあいつの瘴気は今、致命傷を負った肉体を形成するのに精一杯ということだ。腕などとは違って心臓は入り組んだ血管や筋繊維を持つ重要臓器であることから、その役割もかなりのもののはずだ。無為に思えたあの一撃も、無駄ではなかった。
念のためにマスクは外せないが、今この場に黒の瘴気はない。人間である僕には、最大のチャンスだ。
じっとりと汗の滲む手で、拳銃を握り直す。
必ず機会はくる。今度は修復など考えられないよう、頭を吹っ飛ばす。思考する機関を奪うんだ。
近づく。柱に身を隠し、神樹の枝葉に姿を忍ばせ、次の陰へと飛び込む。
避けられては元も子もない。理想は背後からの零距離射撃。それを放てばおそらく僕は助からない。だけど、少なくともナツユキと伊都那は救える。
「それが、ナツユキへの復讐かもしれないな……」
ここで逃げて自分一人助かったとして、僕は京を訪れた意味も、ここで生きる理由も失うことになる。そんな生き方をするくらいなら、死んだほうがいい。
爆炎、破片、轟音、瓦礫が降り注ぐ中、僕は身を屈め、片足を引きずりながらひたすら近づいてゆく。高速で移動し、打ち合い続ける彼女らに追いつくのは至難の業だ。
飛びかかった赤鬼の拳を回避し、死神姫はナツユキの服をつかむ。そのまま走り、旧京都駅空中径路へと続く防火扉へと、彼女を頭から叩きつけた。
防火扉が大きく歪み、ナツユキの額が割れて血液が飛び散った。しかし彼女は死神姫のドレスをつかみ返し、体勢を入れ替えて、力任せに死神姫を歪んだ防火扉へと叩きつける。
「ああぁぁっ!」
凄まじい震動に、巨大なビルが悲鳴を上げた。
硝子張りの狭い空中径路に転がった死神姫へと、伊都那は容赦なく炎を叩きつける。残っていた硝子が吹き飛び、凄まじい風が吹き込んできた。
「……ふふ、ふふふふ……」
死神姫が割れた硝子から空中径路を飛び出して、塗装がはげて錆びた鉄骨へと着地する。そうして、厭らしい笑みを浮かべながら片手で「来い」と挑発した。
地上四十五メートル。
鉄骨と神樹の枝が激しく絡みつく夜の空へと、赤い血を流す二人の怪が、黒の体液を撒き散らす異界の神を追って飛び出した。
強風が吹き荒れる中、最悪の足場で三つの神が打ち合った。炎を巻き起こし、鉄骨を片手でつかんで空中へと身体を投げ出しながら蹴りを放ち、神樹の枝を超高速で走り回る。
震動でほとんどの硝子が砕け散り、雨となって空中径路に降り注いだ。
人間である僕は、空中径路から鉄骨へと飛び出すことはできない。いや、たとえ怪であっても、この高度からアスファルトに叩きつけられるというのは致命的だ。
身を屈め、瓦礫と硝子片だらけの空中径路を必死で進む。足元が軋んで揺れた。
見失えば終わりだ。
均衡は唐突に崩れた。降り注ぐ血で、伊都那が着地と同時に足を滑らせたのだ。バランスを崩し、鉄骨をつかみ損なった伊都那が闇に吸い込まれてゆく。
ナツユキは死神姫に背を向けて、伊都那の手をつかんだ。ゆっくりと傾く身体。足元の鉄骨を片手でつかみ、伊都那をつかんだナツユキの身体が空中で揺れた。鬼神の力でならば、伊都那を支えながらでも片手で鉄骨に復帰することは容易だろう。
だが――。
「……ふ、ふふ、ふふ……」
そこには、やつがいた。
死神姫はナツユキを見下ろして、冷徹に嗤う。嗤う、嗤う、嗤う。狂気の笑みで、嗤う。
「……楽し……かったわ……」
だけど僕は、それ以上に笑った。狂喜乱舞した。心が燃え盛り、激しく躍った。
見せたな、背中を――ッ!!
僕は空中径路の手すりを蹴って鉄骨へと飛び出し、神樹の枝へと飛び移って疾走する。
思い知れ――ッ!! バケモノめ――ッ!!
折れた左脚で神樹の枝を蹴り、全身で死神姫の背中へと体当たりをする。
「絢――ッ!?」
赤鬼の瞳が見開かれると同時に、死神姫の身体が、ぐらりと傾いた。耳障りな嗤い声が、僕の笑い声で上書きされる。
「アッハハハハハッ、捉えたぞ――ッ!」
僕と死神姫の身体がもつれ合って夜空に投げ出された。凄まじい速度で落下し、景色が歪む。だけど、死への恐怖も肉体の痛みも、もう感じない。
地上四十五メートル、地面はアスファルト。それでもおまえは死なないと思っているだろう? だからどうしたと、考えているだろう?
死神姫が驚愕に見開いた瞳で、僕を振り返った。その瞬間を狙って、僕は彼女の口腔へと拳銃の銃口を突き刺す。
「いいや、死ぬね」
足場のない空中では、避けようがない。黒の瘴気や必殺の一撃を僕に放ったところで、引き金を絞る指のほうが早い。
死神姫の表情が初めて恐怖に歪み――しかし次の瞬間には微笑みに変化していた。それはとても美しく、誇り高く。そして彼女が初めて見せた、穏やかな表情だった。
「いい顔だ」
敗北を認めるように、或いは僕の勝利を称えるかのように、死神姫が拳銃の銃口を噛んで瞳を閉じる。
僕は引き金を絞った。
光弾が死神姫の頭部を貫いたのが先か、自分自身が意識を失ったのが先かはわからない。でも僕は、確実に引き金を絞った。回避など、間違ってもできない距離で。
だから、二人の神様が僕を追って手を伸ばし、一緒に落下してきていたことなんて、気づきもしなかった。




