魂魄欲する異界の女神 ⑧
得物を失っても、死神姫はぴくりとも動かない。
「やった……!」
搔き消されるように、黒の瘴気が少しずつ晴れてゆく。
「二人は!?」
伊都那は――立ち上がり、崩れた壁に寄りかかる。かなりのケガを負っているようだけど、生命に別状はなさそうだ。
ナツユキは破壊された大階段に身を沈めたまま、目を見開いて僕を見上げていた。
「……絢十……」
割れた大階段から上半身を起こし、ナツユキが呆然と僕の名を呟いた。言いたいことは山ほどある。今回ばかりは、怒りにまかせて怒鳴りつけてやるつもりだ。
だけど――。
手足が心地よく痺れ、身体中の毛穴が開き、一瞬にして考えられない量の汗が噴き出した。前回に引き続き、視界が黒く狭まってゆく。
気絶から目を覚ましてからだな……。
人間の生命力を切り取って放つ、拳銃の副作用だ。僕の生命力は、もうほとんど残っていない。
このまま心地よい疲れに身をまかせ、眠りにつこうとした瞬間、ナツユキが叫んだ。
「避けてぇーーーーーーーーーーっ!!」
何が起こったのかわからなかった。ただ気づけば大階段中腹にいたはずの僕は、痛みも感じぬままに全身を瓦礫に叩きつけられ、跳ね上がって天地が逆になり、肩から大階段へと落ちて、数十段下の神樹の枝葉に受け止められていた。
「……あ……れ……?」
直後に襲いかかる激痛。
左腕に力を入れると、肩が激痛で軋んだ。肋骨が折れたのか、息をするたびに肉体が悲鳴を上げている。
頭部から流れ込む血液が入って、右目が見えない。狭まり続ける視界の中、僕は残る左の目で必死に状況を確認する。
大階段上部。ゆっくりと降りてくる闇。混乱する。あいつは確かに大階段を転げ落ちていったというのに、なぜ上から来るのか。
「く……う……」
僕が投げ飛ばされ、落とされたのか。
風の中を、不気味な足音だけが夜に響く。
足。黒のドレスを揺らして。ぽっかり空いた左胸。そこには心臓など存在しない。何もない。黒の瘴気以外は何もだ。ただ、黒色の血液だけを大量に流して。
僕は戦慄する。右手の中に拳銃がない。
靴音を鳴らして、死神姫が僕の前で立ち止まった。
身体は動かない。生命力を使い切ったうえに、たったの一撃で重症を負ってしまった。たとえ拳銃があったところで、撃てば今度は命がないだろう。
青白い手が、僕へと伸ばされた。
「ぐ……あ……っ!」
死神姫が僕の頭部をつかみ、かろうじてつま先が地面に触れる高さにまで持ち上げる。軋む頭蓋と全身を駆け巡る激痛に、僕は呻くことしかできない。
死神姫は僕を目線の高さに合わせると、充血した恐ろしい目を大きく見開いて、不気味な笑みを浮かべた。小さな黒目が、僕を射貫く。黒い舌が、唇を舐めとった。
わずか数センチの距離で、黒の女が吐息の声を出した。
「……まだ、殺さない……。……おまえの魂は、とびきりうまそうだ……」
そうして嗤う、嗤う、嗤う。悪魔の声で、捕食者の瞳で、耳まで口を裂いて。静かに、浅ましく、厭らしく。
「……そこで……おとなしく……見ていろ……。……神樹は……後回し……」
神樹? どうして神樹なんて言葉が、ここで出てくる? 死神姫は神樹を殺すために、旧京都駅を根城にしたということか?
なぜ?
「その人から手を放せぇぇーーーーーーッ!!」
いつの間にか死神姫の背後へと迫っていたナツユキが、スカートを舞い上げて死神姫の側頭部へと回し蹴りを繰り出した。
死神姫が百貨店跡へと叩き込まれると同時に、同方向に投げ出された僕は、なぜか太陽の香りのする柔らかな身体にふわりと受け止められていた。
「……伊都……那……」
鮮血に染まった伊都那が、静かに囁いた。
「――ぬしの性格を見知ったうえで、進言する。可能であれば、わずかでも早よう京を捨てよ。鬼神との共闘であれば或いはと思うたが、そううまくはいかぬようだ」
伊都那の金色の髪が、僕の頬にかかった。
「すまぬ、飼い主様。見誤った。おそらく勝てぬ」
血塗れの柔らかな胸が、背後から抱え込むように僕を包む。
「僅々たる刻ではあったが、愛玩の幸を思い出した。礼を云うぞ、飼い主様」
「……行く……な……」
伊都那が静かに微笑みを浮かべ、穏やかな口調で語った。
「妾が集めた魂が、あの者を異界より引き寄せた。騙されたとはいえ、それは揺るぎなき事実。ここで退くは矜持が赦さぬ。せめて一太刀といったところか。……さらばじゃ」
それだけを告げると伊都那は僕をそっとその場に下ろし、長い着物の裾を引きずりながら百貨店跡へと姿を消した。百貨店跡から断続的に炎が噴出し、ドアから大量の血飛沫が大階段を汚す。
「伊都那……!」
だが、再び炎は噴出する。僕は胸を撫で下ろした。
まだ生きてる。だが、時間の問題だ。彼女自身それを理解している。行かなければ。
視界をほぼ失い、僕は身体を引きずって大階段から百貨店跡に向かう。芋虫のように這いずり回ることしかできない僕を飛び越えて、赤鬼が立ち止まった。
強い風が流れて、ナツユキの髪を激しく巻き上げる。
「……ナ……ツユキ……」
赤く染まる両の拳を握りしめて、彼女は絞り出すような声で呟いた。
「……長い間、騙していて……ごめんなさい……。……そして、さようなら……。……最期に逢えて、嬉しかった……」
そう言って振り返り、夏奈深雪は笑った。十年前と同じ、儚げな表情で。
無意識に手を伸ばす。その向こう側で、夏奈深雪は百貨店跡へと向かって走り出した。
まただ。また、届かない。
この手は、十年前に一度彼女を放してしまった。また繰り返すのか。今度失えばもう、何一つ残らない。
「ふざ、けるな……!」
左腕は動かない。右腕で地面を突っ張り、上半身を起こす。震えながら膝を立て、歯を食い縛った。全身からぼたぼたと血が垂れて、足元の大階段を汚してゆく。
神樹にもたれながら、僕は立ち上がった。当然だ。
「今逃げ出したら、今度は死ぬまで後悔するだろ! 冗談じゃねえんだよッ!」
そんな人生しか選べないなら、もう何も惜しくはない! すべて、くれてやる!
わずか残った視界に映る、拳銃。僕はそれを右手で拾い上げ、動かない左手の代わりに口で噛んで撃鉄を起こす。
残りの生命力なんてすべてくれてやる! だから、あいつを殺せ! 心臓がだめなら、今度は頭だ! 再生など考えられないくらいに脳を粉砕してやるッ!
装填できる一発は、己の生命。外すわけにはいかない。




