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魂魄欲する異界の女神 ⑦



    ◇          ◇



 そう言って、異形の女は笑った。ほんの少しだけ振り返って、寂しげに。

 身長は少し伸びた。手足も。平均的な二十歳の女性くらいだろうか。顔つきも先ほどまでとは違って、どこか大人びている。


「ナツ……ユキ……か……?」


 僕の質問にはこたえず、赤鬼の女が大地を蹴った。それだけで足元のフロアは粉砕され、彼女は火のついたロケットのような勢いで死神姫へと迫る。

 まるで気づいていなかったと言えば、嘘になる。疑いはいくつもあった。

 まず、日向冬乃はいくつか僕の性格や嗜好を言いあてていた。だけど、その時点ではまだ、ナツユキと冬乃は顔見知りなんじゃないかって疑念だけで、何かの理由があって話せないだけだと思っていた。

 真っ赤な肌をした夏奈深雪は、涙とともに獣のような咆吼を残し、拳を握りしめる。

 赤鬼は死神姫の大鎌をかいくぐって細く青白い頸をつかみ、そのままの勢いで一〇〇段以上もの大階段を、ほんの数歩で駆け上がり、最上階の奥へと姿を消した。直後、凄まじい震動と同時に黒の瘴気と砂煙が大量に大階段を流れ落ちてくる。


「うわっ!」

「祓えい、炎よ」


 伊都那の炎色の瘴気がいくつもの狐火と化し、流れ落ちる黒の瘴気を灼き尽くす。長く美しい金色の髪が広がって、上昇気流で派手に舞った。

 日向冬乃への疑念が形を変えたのは、死神姫との最初の戦いに敗北したあとだ。長い長い気絶から目覚めた日向冬乃の言葉使いが、ナツユキのそれになっていた。記憶が混乱しているような言動も、いくつかあった。

 それに、クセだ。

 僕の知るナツユキは、悔しいことがあると泣きながら親指を噛んでいた。それに猫舌で、珈琲をいつも冷たい牛乳で半分薄めて飲んでいた。もっとも、それは十年前の話だから、彼女が子供だったからかもしれないとも思った。

 僕は考えていた。

 もしも鬼という生物が、ヒトと同じものを喰らう生物ではないのだとしたら、夏奈深雪は日向冬乃という赤鬼に喰われ、記憶を乗っ取られてしまったのではないか、と。現にそういう怪が存在することは、日本政府によって確認されている。

 だから僕は、失礼を承知の上でわざと怒らせるような質問を冬乃にした。「鬼というのは蛇や蛙や昆虫を食べたりするのか。人肉は」と。

 背中に拳銃(レンの弓)を隠しながら――おまえはナツユキを殺して喰らったのか、と尋ねた。

 だけど、彼女のこたえは「一族揃って、食べものは昔から人間と変わらない」だった。

 この時点で冬乃がナツユキを殺害したという最悪の疑惑は、消えないまでも限りなく小さな可能性となった。残る疑惑は、彼女らが知り合いである可能性と、同一人物である可能性の二つだった。

 そのうえで、僕が夏奈深雪からメールを受信する際、日向冬乃が側にいたことは一度もないということと、冬乃が気絶している間にはナツユキからのメールは入らなかったという、二つの事実。

 考えていた三つの可能性のうち、最もあり得ないと思っていた同一人物疑惑。

 僕は、誰にも聞こえない声で静かに呟いていた。


「十年か。……長かったなあ」


 大階段最上階から吹っ飛ばされてきたナツユキが、中腹に叩き落とされ、階段の一部が破片となって降り注ぐ。乱暴に血を拭い、彼女は立ち上がる。この街と、人々と、おそらくここにいる僕を守るために。


「ごめんなあ、ナツユキ……」


 この十年を苦しんだのは、罪悪感を抱いた僕なんかよりも、人間ではなくなってしまったナツユキのほうだったのかもしれない。ヒトではなくなり、なおもヒトを求める、矛盾を孕んだ鬼。

 瘴気に紛れて出現した死神姫に腹部を殴られ、赤鬼が大階段に併設されたエスカレーターを越えて、大理石の壁へと頭から突っ込んだ。

 巨大な駅ビルが震動し、瓦礫とガラス片が降り注ぐ。


「キミは……強いなあ……」


 ヒトであれば即死。だけど彼女はもう、人間ではなくなっていた。

 夏奈深雪は頭部を押さえて振り、立ち上がって空間を揺らすほどの声量で鬼の咆吼をあげ、止まったエスカレーターを足場に跳躍し、死神姫へとつかみかかる。

 さらなる声量の鬼の咆吼が、大階段という狭い空間を震動させた。

 大階段を破壊するほどの勢いで死神姫を地面へ叩きつけ、しかし次の瞬間には大鎌で腹部を裂かれながら、後方へと大きく距離を取る。

 ナツユキの片膝が折れる。腹部を押さえた手の隙間からは、血が流れ出していた。


「……ふむ。これで五分(ごぶ)、いや、三分(さんぶ)といったところか」


 伊都那が静かに呟いた。


「飼い主様。現世の神二柱と云えど、異界の神は少々荷が重い。狐火の欠片を残してゆくゆえ、ここで待っておれ。瘴気ごときであらば、そやつが猛火と化し祓ってくれよう。妾が破れしときは、仇などと考える必要はないゆえ、逃げよ。やつは妾から小箱を奪い、妾がとち狂うて集めた人間らの魂を喰ろうて力をつけた。その力で京のヒトに仇成すなど、妖弧としての矜持が赦さぬ」


 伊都那が指先を小さく打ち鳴らすと、彼女から放出され続けていた炎色の瘴気の一部が切り離され、僕の頭部上空で青白い狐火へと変化した。


「飼い主様?」


 半ば以上、聞いていなかった。僕は伊都那の言葉を脳内で反芻し、早口に呟く。


「……なんでもない。早く行ってあげて」

「承知した」


 伊都那がふわりと跳び上がり、数十メートル先の大階段の踊り場に降り立った。

 赤鬼と死神姫の戦う地響きは、断続的に続いている。大鎌の一閃は大理石をも斬り裂き、赤鬼の一撃は鉄骨をも曲げる。地形が変化してしまうほどの戦い。ヒトであれば、触れることすら叶わぬ壮絶なる戦い。

 赤鬼を百貨店跡のドアに叩きつけ、大鎌の追撃を加えようとした死神姫へと、伊都那が至近距離から猛火を放つ。しかしそれを物ともせず、死神姫は目標を妖弧へと変更して大鎌を振るった。

 金色の長髪が数本、夜空に舞い散る。


「でもなあ、ナツユキ――」


 野生の獣のように飛びかかった赤鬼の一撃を背中に受け、決して折れることのない神樹の枝に弾かれながら、死神姫は大階段を跨いで駅ビルの壁へと叩きつけられた。

 びしゃりと肉の弾ける音がして、大理石の壁面に真っ黒な花が咲いた。黒色の血液を大量に流し、それでも不気味な笑みは絶やさない。


「――僕はキミを、ゆるせそうにないんだ」


 僕は少なからず、ナツユキにも冬乃という紛い物の人格にも、腹を立てていた。

 手の中で拳銃(レンの弓)を取り回し、立ち上がる。


「わかるか? わかんないだろ……ッ」


 歯を食い縛り、言葉を呑む。

 鬼の姿を見て逃げ出す程度の気持ちじゃあ、十年も後悔しないッ! 一方通行と知りながら、魔都に踏み込んだりもしないッ!

 撃鉄(ハンマー)を起こし、破壊された大階段を神樹の枝に沿って全速力で駆け上って行く。

 この十年は、そんな軽い気持ちなんかじゃなかったッ!

 赤鬼と化したナツユキが、顔をつかまれて地面を砕いて押さえつけられ、伊都那は髪をつかまれて投げ飛ばされ、百貨店の壁を突き崩して転がった。

 待ってろ……!

 先日と違い、魂を山ほど喰らって力をつけた今の死神姫が相手では、たとえ数歩の距離でも拳銃(レンの弓)をあてることは難しいだろう。

 でも!

 僕はあえて黒の瘴気に潜行し、息を止めながら神樹の影の中を疾走する。この人智を超えた戦いの中、人間である僕がつかめるチャンスは一度きりだ。

 死中に活を見出す――!

 視界の闇を恐れず、足音を殺して息を止め、最速で大階段を駆け上がる。零に近いほど闇に包まれた視界に、ただ一つ揺らぐ影。

 なあ、たかがニンゲンと、そう思っていただろう? 鬼神と妖弧を討ち取ったあとにでも、ゆっくり魂を奪えばいいと、そんなことを考えていただろう?

 僕は黒の瘴気から一気に浮上し、死神姫の柔らかな左胸に銃口を押しつけた。

 初めて。この戦いが始まって以来、初めてだ。死神姫の表情が変わった。引き攣ったのだ。これほど気持ちのいい光景はない。


「――どんな気分だ、バケモノ?」


 零距離射撃。

 こたえる暇など与えない。質問と同時に、僕はすでに引き金(トリガー)を絞っていた。

 魂の光弾が死神姫の左胸を貫き、彼女を大きく吹っ飛ばすと同時に、僕は反動で後方へと滑る。踵が瓦礫にあたって尻餅をつき、数段を転がり落ちた。

 慌てて起き上がり、確認する。

 背中から大階段に落ちた死神姫の左胸には、ぽっかりと穴が空いている。そのまま死神姫は黒の血液を大量に流しながら大階段を転がって、眼下の踊り場で止まった。

 ……動かない。

 大鎌だけが青白い手から離れ、破壊された大階段をさらに滑り落ちてゆく。けたたましい音を立てて、下へ、下へ。


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