魂魄欲する異界の女神 ⑥
「絢十、戻れぇーーーーっ!」
そう叫んだ瞬間には、死神姫の周囲に強引に押し留められていた大量の瘴気が、大階段を伝って凄まじい速度で流れ落ちてきていた。階段だけじゃない。右手のビルからも、左手の百貨店跡からも、ドアの隙間や割れた窓から黒の霧が大量に溢れ出す。
人間の足で逃げ切れる速さじゃない。
――呑まれる!
わたしは耐えきれる。けれど、人間である絢十は一溜まりもない。全身が瘴気に海に沈んでしまっては、聖骸布のマスクも意味を成さない。
わたしを巻き込んだ黒の波は、瞬間的に踵を返した絢十の前方、上空、そして左右からも彼へと襲いかかった。
「くそぉーーーーっ!」
「絢十ぉぉーーーーーっ!!」
彼の全身が真っ黒な空間に包まれた瞬間――前触れもなく炎が爆ぜた。
黒の瘴気が雲散霧消し、代わりに凄まじい猛火が空間を包み込む。
「――痴れ者め」
高圧的で力強い、女の声が響いた。
猛火は黒の瘴気を灼き払い、役目を終えると同時に徐々に消滅してゆく。熱量すら伴っていない不可思議な現象に、立ち尽くすしかなかった絢十もわたしも、狐につままれたような感覚に陥った。
いいや、実際につままれたのだ。狐に。
わずか残った炎の中から、眉目秀麗な女性が顕現する。
肩口も露わに鮮紅色の着物を着崩して、足元にまでかかりそうなほどの長さの輝く金色の髪を、炎で上昇する気流に揺らしながら。黄金の瞳は愁いを称え、艶やかな唇が静かに開かれる。
「――貴様、妾の飼い主様に何をするか、招かれざる異界の神よ」
ゆっくりとした、だけどよく通るハッキリとした口調。とても力強い声。
女性が雅な仕草で右手をすぅっと持ち上げた瞬間、死神姫の周囲で渦巻いていた瘴気が炎を宿し、夜の空へと弾け飛んだ。
それでも死神姫は不気味な笑みを浮かべたままだ。新たな瘴気を生み出し、再びその身に纏う。
女性の熾す炎が再び黒の瘴気へと襲いかかる。黒と赤の激しいせめぎ合い。わたしは理解する。あれは炎ではなく、猛火の特性を持つ炎色の瘴気なのだと。
「むう……そう長くは保たぬぞ、飼い主様」
わけがわからない。呆然と立ったままの絢十ですら、ぽかんと口を開けたままだ。
わたしが絢十に視線をやると、絢十が大慌てで首を左右に振った。
件の女性の首筋には、古びた首輪が巻かれている。着崩した着物は豊かな胸にかかり、着衣状態であってもわかるほどに腰部は細い。裾口の隙間から覗く足は長く、奇妙なことに下駄はもちろん草履らしきものも履いておらず、裸足だ。
そして金色の頭部には、獣の耳。
「少女狐……か?」
絢十が呟くと、女性はわずかに瞳を細めて両膝を曲げた。
「伊都那。そう呼ぶがよい。飼い主様」
少女というよりは、もはや立派な女性のように見える。
「か、飼い主? 僕が?」
妖弧。その名に反して妖怪であることから脱し、神へと転身した狐。少女狐は炎狐なんかじゃなくて、妖弧だった。
それはつまり、わたしとの戦いで正体を見せなかったのは、本気でわたしを殺す気はなかったということだ。おそらくは自分の犯している罪を理解していたから。
「あ、あんた――」
「委細はあとにせい、鬼の子。来ておるぞ」
視線を戻した瞬間、遙か上方に佇んでいたはずの死神姫が、わたしの眼前で黒のドレスを翻していた。
黒と赤がせめぎ合う空間を斬り裂いて、大鎌がわたしの頸へと迫る――!
この前よりもずっと速い。わたしの反応が追いつかない。
「――ッ!?」
息を呑む。
「冬乃!」
瞬間、その先端でわたしの頸に触れた大鎌の刃が、輝く光弾によって大きく弾かれた。魂の輝きだ。絢十が拳銃を撃った反動でよろめく。
バカ絢十――二発しか撃てないのに!
わたしはとっさに両手で死神姫の片腕をつかみ、力任せに自らの膝で叩き折る。
「この――!」
骨が砕ける鈍い音が響き、大鎌を持つ腕があり得ない方向に曲がった。焦げついたかのような真っ黒な骨が、傷口から飛び出す。赤い血はない。傷口から溢れ出したのは、黒の瘴気だ。
それでも死神姫は眉一つ動かさない。一秒後には曲がった腕を不気味に戻して、大鎌でわたしの身体を逆袈裟に薙ぎ払う。
「く!」
間一髪、コートのボタンが縦に弾け飛び、わたしの額は鮮血に染まった。醜い赤毛が数本空に舞い上がる中、振り上げられたばかりの大鎌の刃が、真下を向いた。
――っ!?
息を呑む。回避は間に合わない。
「呆けるな、鬼の子よ!」
大鎌が振り下ろされる直前、伊都那が腕を振るった。
わたしと死神姫とのわずか数十センチの隙間で炎が爆ぜ、わたしたちは爆風に煽られて別方向へと吹き飛ばされた。
伊都那はなおも腕を振るう。
「灼き尽くせい!」
死神姫のドレスに燃え移った炎は、彼女を侵蝕してゆく。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には黒の瘴気が炎を覆い潰してしまった。
死神姫の虚ろを宿した狂気の瞳が、わたしや絢十から伊都那へと向けられる。
「……おまえ、邪魔……」
暗く澱んだ声。最小限の言語。それでも数時間前より、はっきりと。
伊都那は死神姫の視線から絢十を庇うように立ちはだかり、両袖を広げて、不敵な笑みを浮かべた。
「邪魔とな。ふふ、それは好い。ならば聞くがよい、異界の神よ」
一度言葉を切り、伊都那は胸一杯に空気を吸い込んで、朗々たる声で叫ぶ。
「――京の狐はヒトの味方ぞ! 魂なぞ、異界の神ごときにただの一つもくれてやる道理などないわ!」
そうして視線だけをわたしに向けて、早口に吐き捨てた。
「鬼の子、何を躊躇っておるのじゃ。おぬしが何にこだわっておるのかは知らぬが、また妾の飼い主様の手を煩わせるつもりかえ」
好き勝手言ってくれる。でも、正論。
伊都那は絢十に拳銃を撃たせるなと言っているのだ。そんなことはわたしだってわかっている。あれは、まともな武器じゃない。生命力を切り取って撃ち出す武器。そんなの、本当なら一発だって撃たせたくないもの。
昨夜、絢十は二発撃って気絶した。ならば三発目は死を招く。つまり、まかり間違って撃ったとしても、残りは一発。
「やかましい。そんなもんわかっとるわ、狐」
死神姫は強くなっている。わたしがまるで敵わなかった昨日よりも、ずっと。それだけ多くの魂を喰らったということだ。
もう、隠せないな……。
なるべく見られたくなかっただけ。そう、ただそれだけ。それだけの理由で絢十を死なせるくらいなら、迷う理由なんてないもの。
たとえ絢十が、この街を訪れた理由を失おうとも。彼がわたしから、離れて行こうとも。
わたしはボロボロになった白のコートを脱いで、絢十の顔へと投げて被せた。
「冬乃?」
「見ないで」
絢十の声を無視してわたしは視線すら合わせず、全身の細胞を活性化させてゆく。違うな。うん、違う。
視線を合わせないのではなく、彼の顔を見る勇気がなかった。
やがて細胞は発熱し、ヒトの限界を超えたところで変質する。頭皮を破って二本の尖塔型の骨が隆起し、手足はもちろん、肉体の隅々に至るまで脂肪を燃やし尽くし、発生したエネルギーのすべてを肉体の再構成へと使用する。
指の先まで節くれ立つ手足、これまで以上に硬くなる肉体、同質量で人間の数百倍もの力を発生させる細く鋭い筋繊維。髪や瞳は十年前の黒髪に戻り、代わりに肌が鮮血のように赤く染まってゆく。
暴力的に溢れ出る力の奔流に、わたしは鋭く尖った牙を剥き、最大声量で咆吼する。夜を震わせ、神樹の葉を弾き飛ばし、残っていた駅ビルの硝子が次々と砕けてゆく。
これが、鬼神。これが、赤鬼。これが、京に流され日向冬乃を名乗った女。
絢十がわたしのコートを取り去って、目と口を呆然と開く。言葉はない。無理もないだろう。
今のわたしは肌の色こそ違っても、本来の自分自身、彼が知る夏奈深雪の十年後の姿をしているのだから。
――これが、夏奈深雪の成れの果て。
「ごめんね……ずっと騙していて、ごめん……」
見られたくなかった……。ごめんね。本当に、ごめん……。せっかく京まで追いかけてきてくれたのに、わたしもう、こんな身体になっちゃったんだよ……。
「……醜いでしょ。だから、あまり見ないで」
笑顔を浮かべようとしたのに、恥ずかしくて、悔しくて、涙が出てきた。
唇が、動く。もう、楽になりたい。
わたしは告白する。
――これが、あなたが自分を捨ててまで追い続けてきた女の、成れの果てです。




