魂魄欲する異界の女神 ④
背筋に悪寒が走った。すかさず冬乃が尋ねる。
「瘴気感染か?」
「……ああ。ざまあねえな。俺のような神樹生まれのオリジナルにゃ効きづれえみてえだが、社長みてえなニンゲン混じりの半端もんにゃ、やっぱ毒みてえだ。あんたくらいの神格の怪でもねえ限りはな。……いや、もう俺も危険かもしんねえな。生粋の怪でも、下級のやつらはくたばり始めてる。人狼じゃなきゃ、俺ももうこうして立っちゃいられなかっただろうよ」
ラルが鋭い牙の隙間から、悔しげに呟く。
「間近で見ちまった。あのバケモノは、魂を喰らって力を増す。社長が瘴気にやられたとき、人狼の俺がびびって動けなかった。ぶるっちまったのさ。あいつは堂々と俺の目の前を歩いて行ったんだ。俺なんざ魂を奪う価値もねえ、歯牙にもかけずにな。情けねえ話だ」
一度言葉を切って、ラルは魚屋に視線を向けた。
「社長には体力がある。ニンゲンみてえに一日やそこらでくたばるこたあねえだろうが、衰弱するまで眠り続けるとしたら結末はそう変わりゃしねえ」
「あんた、そやのに魚屋の屋台で働いてんの? 盗るもん盗って逃げるんやったら今しかチャンスないんちゃうの」
冬乃が両手を腰にあてて訝しげに言うと、ラルはもう一度魚屋に視線をやってから、やはり吐き捨てるように言った。
「ハッ、社長がくたばったら、もちろんそうさせてもらうぜ!」
「くたばるまではせえへんってことか? ……おまえ、魚屋の信頼を裏切ってみろ。この街で生きていけへんようにしたるぞ」
凄む冬乃に対し、ラルは何もこたえない。
冬乃は訝しげな表情でラルを見ているが、僕には人狼の気持ちがわかる気がする。
だって、僕にとって冬乃が自分を救ってくれた大切な存在であるのと同じように、ラルにとっては魚屋がそういう存在なのだから。
僕は冬乃を見捨てられないし、ラルは魚屋を見捨てない。生きるや死ぬやのこの魔都で結ばれる関係とは、得てしてそういうものだ。
それに狼はイヌ科だ。受けた恩は決して忘れない。
カーテンの外の世界で、やたらと乱発されている『絆』なんて上辺だけの言葉よりも、よほど固くて重い関係だ。
「しないよ。できるわけがない。そうだろ、ラル?」
僕がそう言うと、ラルは一瞬だけ僕を見てから、苦々しく「さあな」と吐き捨てた。
ラルは慣れない手つきでクーラーボックスから大量の氷を取り出して発泡スチロールの箱に流し入れ、その上に生の魚を並べて虫避けのネットをかぶせた。
たったの二日で、すっかり仕事の手順は覚えたようだ。
「おう、絢十。あのバケモン張っ倒したら、帰りに寄れよ。七輪で塩焼きにしてサービスしてやる。店員が言うのもなんだが、生はキツいが炭焼きはうめえ。……ただし、社長が起きるまでの間だ。勝手にサービスしたら叱られるからな」
狼顔だから毛むくじゃらで表情も顔色もあまりわからないけれど、たぶん照れてる。
「うん、ありがとう」
「……俺らぁもう、おめえらに頼るしかねえ。頼むぜ、京都多種族安全機構」
言ったら怒って否定すると思うけど、ラルは魚屋のことが好きなのだろう。僕の中で日向冬乃が、ナツユキに匹敵するくらいの大きな存在になりつつあるように。
冬乃は優しいだけではなく、とても強くて、危険で、刺激的で、僕にとっては魅力的な存在だ。それらはナツユキにはなかった特徴だ。
優しさだけは、同じくらい。
「行こう、冬乃」
「ん」
僕らは再び七条通を歩き出す。
出ている露店は魚屋のもの一店だけだ。通りは、しんと静まり返っている。
仮死者、仮死者、仮死者。ヒトも、怪も、道路の中央から端まで、等しく倒れている。
僕は生唾を飲む。
常に誰かと会話をしていないと、叫びだしてしまいそうなほどに怖くなる。子供の頃、何かで見た地獄絵図のようだ。救いがあるとすれば、絵図とは違って鬼が味方だということか。
誰一人うめき声すら上げないし、指一本動かす人もいない。
僕らは仮死者の間を抜けるように、ただ歩く。ふいに冬乃が両手を腰にあて、唇を尖らせた。
「なんやねん、あいつ。うちの言うことには返事もろくにせんとブスくれとるだけやのに、絢十の言うことは、なんだかんだ言うて聞きよるな、あのワンコロ」
至るところで倒れ伏す仮死者から視線を外せなくなっていた僕は、一度夜空を見上げてから、意識的に冬乃の不満げな表情に視線を向けることにした。
月光に照らされた赤髪はオレンジ色に輝いて見えて、とても綺麗だ。
「そう? 僕にはよくわからないな。この前会ったときは、そんなでもなかったんだけど。魚屋がラルに何か言ったのかな?」
冬乃がむくれて、じろっと僕を睨んだ。
「……絢十、ホンマに魚屋と何かあったんちゃうやろな。ニャンニャンしたん?」
「してないよ! つか、なんだその言い方。昭和のオッサンか。僕はただ、少女狐の件で魚屋にキミの居場所を聞いただけだから」
「どーだか」
胸の前で腕を組み、冬乃がそっぽ向いた。
「仮にそうだとしても、なんで冬乃がそんなに不機嫌になるんだよ」
嫉妬だったら嬉しい、などとバカげたことを考えてしまっている自分がいる。だって僕は、魚屋ではなく日向冬乃に惹かれていたのだから。
けれど自分の中で十年間育ってきたナツユキへの想いが、恋愛感情からなのか罪悪感からなのかを確かめるまでは、この気持ちを表に出すことはできない。
どちらにしても、僕は最低な人間だ。
冬乃がうつむき、呻くように呟く。
「べ、別に不機嫌になんてなってへんもん。うちはただ、そんなんされたら夏奈深雪が可哀想って……思っただけやし……」
冬乃の言葉が、尻すぼみに小さくなってゆく。
「冬乃がナツユキのことを思ってくれるのは凄く嬉しいけど、魚屋に関しては、本当に何もないから」
冬乃が眉を寄せて、顔を上げた。
「……魚屋に関しては? まさか、他にも気になる女がおるん?」
あふ!
なんで僕はこう、いつも一言余計に喋ってしまうんだ。間違っても、キミに惹かれてるなんてことは言えないというのに。
「こ、言葉のアヤってやつだ」
冬乃がため息をついて、歩きながら肩を落とした。
「はぁ~あ。魚屋といい、ラルといい、連太郎といい。絢十って種族も性別も関係なく、誰でも引っかけていくんやな。…………この浮気もんっ」
「だ~から、してないって」
月光に浮かび上がる巨大な神樹が、徐々に近づいてきている。僕らは神樹の影へと踏み込んでゆく。怪を生み出す実は、今はなっていない。
冬乃が瞳を細めて神樹を見上げた。
「近くで見ると圧倒されるねんなぁ、これ」
僕は同じように見上げ、不思議な感覚に陥る。
「……でも、綺麗だ……凄く……」
巨大で、神々しく、そして、生命力に充ち満ちている。真冬であるにもかかわらず、枯れた葉など一枚もつけていない。京都を混沌の都にして、数多の怪を今も生み出し続けている神の木だというのに、その姿はあまりに美しい。
誰もが畏敬の念さえ抱く神樹の枝葉からは、月光が静かに降り注いでいた。緑の葉の一枚一枚が輝き、微かに揺れている様には、思わず視線を奪われてしまう。
恐怖に囚われそうな心が、不思議と落ち着いてゆく。まるで、暖かな腕に抱かれているかのように。
「絢十?」
「なんでもない。行こう」
目指す場所は、旧京都駅だ。山本警部からの連絡では、どうやら死神姫は、あそこをエサ場と決めたらしい。新幹線はもちろんのこと、在来線すら来なくなっても、あそこには今も多くの人や怪が集まっていたから。
里村連太郎の情報では、神樹の足元、駅前のタワーホテルやセンチュリーホテルをねぐらにしていた人や怪たちがかなりの数存在し、南北のターミナルにはいつも多くの露店が集うらしい。
死神姫にとっては、恰好の狩り場だ。警官隊が先回りして避難を促したとはいえ、死神姫は今頃、腹一杯まで魂を喰らっていることだろう。
再び心に恐怖が射し込んできた瞬間、冬乃が自分の肩を僕の肩に軽くぶつけてきた。
「綺麗、か。絢十は神樹まで褒めるくせに、うちのことだけは褒めてくれへんな。まあ、醜い赤鬼やから、しゃーないとは思うけど」
「な、何言ってんだよ。そんなこと――」
言葉が続かない。この先は、まだ言えない。
「――そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
「まあ、そうやねんけど。ああ、くっそー! 女子力ほっしいなあ、もう!」
そう言って僕に笑いかけてくる赤鬼は、とても魅力的だ。今すぐに抱きしめてしまいたい衝動に駆られるほどに。けれどそのたび、僕の脳裏には十年前の夏奈深雪の泣き顔が浮かぶんだ。
「どしたん?」
「いや……。ご飯、おいしかったよ」
「あはは、今それ言うん!? 絢十ってほんま、ずれてるな!」
そうして僕らは笑い合う。一頻り笑って、僕は自分の肩を冬乃の肩に軽くぶつけた。
「僕がびびってたから気を遣ってくれたんだろ。ありがとうな、冬乃」
「な――、そ、そんなんちゃうし」
冬乃が言葉に詰まって、唇を尖らせる。
「わかるよ、それくらい。正直言って、こうして軽口でも叩いていないと、今にも逃げ出しそうなくらいびびってる。でも、逃げたら後悔する。だから、ありがとう」
おかげで恐怖に圧し潰されずに、ここまで来られた。大丈夫。気力も生命力も充実している。拳銃も、二発は撃てる。
今度は無言で、冬乃が僕に肩をぶつけてきた。僕も無言でぶつけ返す。笑いながら。パワー的に、あまり割に合っていない吹っ飛び具合ではあるが。




