混沌なりしは京の都(まち) ②
その瞬間、事務所の黒電話がけたたましく鳴った。
まったくもって面倒くさい。対話を打ち切られたわたしは、彼が見ていることを忘れて、あからさまに舌打ちをしてしまった。
受話器を上げる。
「はい、こちら京都多種族安全機構です。ただいま留守にしております。御用のある方は、発信音みたいな声のあとに、ご用件を一秒以内にお伝えください。…………ぴーっ!」
およそ一秒後にもう一度「ぴーっ!」と叫ぶと、さっさと受話器を置く。
どうせ大した用事じゃないに決まってるから。今より大事なことなんて、どこにもありはしないものだ。
「ずいぶんエキセントリックな電話対応だね。いいの?」
「ええねん。大事な用やったら、どうせもう一回かけてくるやろ」
憮然とした表情で睨むと、絢十が苦笑いを浮かべた。
可愛い。成人してるようにはとても見えないけれど、彼が自分で名乗ったとおり、本当に一条絢十であるならば、間違いなく二十歳だ。そうそうある名前じゃないもの。
そっか……。この人が、一条絢十なんだ……。
わたしは心に浮かんだことを誤魔化すように、椅子の背もたれに背中を預け、両手を上に突き出して疲れた身体を伸ばした。
眠い。ひたすら眠い。もう帰って眠ろうとしていたときに、彼を見つけたから。
ふと気づくと、なぜか絢十が赤面をして、わたしから視線を逸らした。きっと、ろくでもないことを考えたに違いない。
ちょっとだけからかってやろうと、両手で胸を隠して睨みつけてやると、一度戻した視線を、またしても逸らした。
ほほ。少し、おもしろい。
「……それよりあんた、ゴミ食べようとしてたくらいやし、行くとこあるん?」
「あ、うん。一応あるにはあるんだけど、場所がわからないんだよね」
わたしは赤毛を揺らして、首を傾げた。
「どういうこと? 地図見たらええやん。なんやったら、そこまでうちが案内したるよ。京都多種族安全機構は、一応、観光案内の事務所やしな」
表向きは観光案内所ということで届け出をしているが、入れば二度と出ることの叶わない魔都京都に観光に来る馬鹿はいない。つまり、本業は別のところにある。
けれど絢十は首を左右に振った。
「違うんだ。場所じゃなくて人を捜してるんだよ。古い友達が京にいるはずなんだ。とりあえずそのコと合流してから、今後のことを考えようって思ってたのに、突然連絡が取れなくなっちゃってさ。まいったよ」
そう言って、彼はションボリした顔でソーラー充電式のスマートフォンの液晶画面に視線を落とした。どうやら新しいメールがきていないかチェックをしているようだ。
わたしは唇を歪めて、呻くように呟く。
「友達なァ……。……それって女の子?」
「うん」
わたしは興味なさげに視線を逸らし、横を向いた。
まともに彼の顔を見られない。罪悪感でいっぱいだ。なぜなら、そのメールの相手はわたしだったのだから。
「……あっそ。で、他に手がかりは?」
「名前だけしかないんだ。覚えている顔も十年前の彼女だし。夏奈深雪っていう子なんだけど、キミは知らない?」
やっぱり……。
もちろん知っている。誰よりも。
――なぜなら彼女を殺したのは、わたしなのだから。
数秒視線を揺らして考えるふりをしたあと、わたしは肩をすくめた。
「知らん。この街じゃ戸籍もクソもないからな。みんな好き勝手名乗ってるし、名前から人を捜すんは無理や。他に手がかりがないんやったら、あきらめたほうがええよ」
絢十はスマホをポケットに仕舞い込み、ため息をついた。
「これまで十年間、ずっとメールだけは届いていたのに、一週間前に僕がこの街に入ってから突然返事がこなくなったんだ。だからそのコを捜して京を彷徨ってた」
わたしは目を見開き、絢十に視線を戻した。
「ちょ、ちょっと待って。彷徨ってたって……一週間も!?」
「まだ一週間だ」
絢十は目を細めて真っ白な歯を見せ、当然のように言った。
「信じとるん? そのコのこと。普通それだけ待って返事なかったら、フラレたと思うけど」
「そうかもね。でも、やっぱり直接逢いたいなって思うんだ」
わたしは無意識に指先で横髪をくるくると巻き取って、一つ咳払いをした。自分が言われているわけではないとわかってはいても、かなり刺激的な言葉だ。鼻血出そう。
「なんでキミが赤くなってるのさ?」
「あ、あんたが恥ずかしいこと言うからや! 関西人はバラエティばっかり観とるから、こういうトレンディなん苦手やねん! 今日も新喜劇がおもろいわあ!」
「ト、トレンディ……」
話題、話題を変えよう。
「まあ、それはともかくとして、よく一週間も生きてたなあ。魔都で野宿とか考えられへん。深夜は怪のパラダイス、夜は墓場で体育祭いうような土地やで。それでなくても京の冬は冷えるやろうに」
「そこはほら、廃屋や廃墟だけは多いから。最低限雨風さえ凌げれば、コートにくるまって眠れなくもなかったよ。さすがに食べ物だけはどうしようもなかったけどね」
そうやって話している間にも、少し伸びてしまった即席麺を、この上なくおいしそうに食べている。
幸せそうな顔。見ていてこっちが気持ちいいくらいだ。食べるの好きそうだもん。もう少しいいものを出してあげればよかったな。重い重い、最重量級の女の手料理とか。
「ところでさ、ここって何かの会社?」
「へ? ああ。うん、まあ。一応……か、観光事務所やけど……」
一割本当で、九割嘘。観光客なんて京都には来ない。今はもっぱら秋葉原だもの。
突然、ソファから絢十が立ち上がり、面食らうわたしの前で膝を折って、両手を地面につけた。キビキビとした、この上なく見事な土下座だ。
わたしは、若干引いた。
「僕をここで働かせてくださいっ!!」
「は……あ……?」
何を言い出すのか。
「こ、このまま夏奈深雪が見つからなかったら、僕はまたキミの恥ずかしいゴミを漁らなきゃならない生活に逆戻りなんです!」
おい。
「……えっと……、それって、うちのこと脅してるん? 脅迫?」
「めっそーもございません!」
ずれずれ、ずりずり、どんどん人間としてずれ込んでいくな、この人。このまま観察していたい気もするけれど。
けれどわたしはそんな内心などひた隠しにして、大嫌いな自分の赤毛に手を入れ、ばりばりと頭を搔いた。
なんだか絢十と話していると、こっちまでおかしくなってしまいそうだ。これまでのメールでは、そんなことなかったのになあ。
けれど、このままこの人を放り出したら、三日後にはどこぞの道端かゴミ捨て場あたりで冷たくなって、蝿か烏あたりに集られていそうだ。ここはそういう街だから。
「はあ~……。しゃあないなぁ。夏奈深雪の捜索を手伝うことはでけへんけど、飯も食えんやつを放り出すんも気が引ける。当面のバイトくらいは、うちがここの課長に頼んだるわ。それでええか?」
絢十が目を見開いて、口をぽかんと開けた。
「キミって、見かけによらずいい人だったんだね」
「おまえ、さっきから一言多いねん! 言うとくけど、ここのバイトは――」
瞬間、黒電話が再び鳴り出した。
再び舌打ちをして、わたしは受話器を上げる。二度目の電話では、さすがに居留守を使うわけにもいかないだろう。
「はい、京都多種族安全機構、日向です。……なんや警察さんですか。課長やったら出かけてますよ。……ん? ああ、ええ……うち? いや~、昨日は夜遅かったし、今日は非番やし、もう帰って休もう思ってまして~。…………わかった、わかりましたっ。大の大人がメソメソ泣きなや。必死のパッチか。…………すぐ行きますよ、もう!」
厄介事だ。クッソ眠いというのに腹の立つ。
乱暴に受話器を叩きつけ、わたしは両肩を落とす。
「は~ぁ、また残業か。――で、絢十いうたっけ。バイトの件はどうする?」
ほんの一瞬の躊躇いもなく、絢十はやはり邪気のない笑みを浮かべながら言った。
「もちろん、やらせてもらえるなら喜んで! ナツユキ――じゃない、夏奈深雪が見つからなかったら、またキミの恥ずかしいゴミを漁らなきゃいけないところだったよ」
「念押さんでもわかっとるから二回も言うな! うちの生理用品よりあんたのその行動のほうがハズかしわ! ……あ」
「あ……」
今のナシ。三秒時間を巻き戻して、神様。もしくは記憶を失うくらい殴って。
「えっと、気にしないで。お、女の子には誰にでもあることだから」
やめて。そこは理解しないで綺麗に流して。何をいい笑顔で親指など立てているのか、この男は。
だけど、眩しい。きらきらしてる。うん、嫌いじゃない。やっぱりこいつのこの笑顔は、嫌いじゃない。決してイケメンというわけではないけれど。
「よっしゃ。うちは冬乃。日向冬乃や。みんなからは鬼っこって呼ばれとるけどな」
「あはは、それはキミにぴったりだ」
おい貴様。全部の関節を曲がらん方向に曲げたろか。
「……あんた、ほんま一言多いな。考えたことをなんでも口に出しなや」
「い、いや、名前! ほら、あだ名じゃなくて名前のほうだから! 暖かくて冷たくて、なんか綺麗だなって!」
言われて気づく。
そういえば夏奈深雪もそうだった。暖かくて、冷たくて。この名前を名乗ることにしたとき、わたしは無意識に夏奈深雪に近づけたのかもしれない。
わたしの中の彼女の記憶は、もう十年前のものだ。大多数の日本人がそうであるように、黒髪の黒目だった。こんな無様な赤毛や赤目ではなかった。関西弁でもなかったし、強がりなんて言わなかった。
彼女は、普通の弱い女の子だった。
「名前もそうだし、その髪と瞳の色も、暖かそうで綺麗だと思うよ」
ほんの一度だけ、鼓動が胸を強く叩いた。数秒遅れで、顔が発熱する。
わたしはマヌケな顔をして、絢十に視線を向けた。少し言葉に詰まって、無理矢理絞り出した声が上擦る。
「…………そ、それやったら別に……てゆーか、平然とそういうこと言うの、やめてくれへん? ……ハ、ハズいから……」
わたしは表情を隠して小さな咳払いを一つし、立ち上がってコートを翻す。
こんな顔は誰にも見せられない。
「よし、ほな早速やけど研修行こか。今回はうちがやるから、それ見て仕事おぼえて」
「あ、待って、まだラーメン――」
冷えたスープをあわてて飲み干し、絢十はわたしの背後で立ち上がった。
◇ ◇
東京を出るとき、京都の地図は、ある程度頭に叩き込んできた。
事務所のある七条通を西へ。
すっかりと自然の色を取り戻した鴨川を、僕らは七条大橋で渡る。
当然のように、走行する車なんて上等なものは滅多に見られない。
かつては世界有数の観光都市だった京都市も、今ではその大半がゴーストタウンと化している。
アスファルトを割って生える植物、硝子窓のなくなったビルには蔦が這い、明かりの消えたアミューズメント施設には得体の知れない影が巣くう。
一週間前にこの街に入ってから、僕はそれらを避けるように寝床を探し、どうにかこうにか生き延びてきた。それも、路銀が尽きるまでの話だったが。
京都第一級閉鎖指定地区に生きる人間の総人口は、今ではもう二万人にも満たないらしい。ぽつぽつと出ている露天商や買い物客らも、彼らが純粋な人間である限り、日暮れとともに姿を消す。それがこの街で生きる“人間”のルールだ。
曰く、深夜に外を出歩くな。
曰く、怪とは関わるな。
曰く、それがヒトであったとしても、他者に手を差し伸べるな。
すべて夏奈深雪が、メールで僕に教えてくれたことだった。悲しいことです、との言葉を最後に添えて。
もっとも、それらのルールも人間であればの話だ。実際、この街に棲む半数以上がすでに見るからに人間ではなくなっている。象の鼻と耳を持つ女性、犬の耳と尻尾を持つ幼い男の子、中には鱗に覆われた手足をしているものもいるし、羽根の生えた女性もいる。
怪とヒトとの間に生まれた、デミ・ヒューマンだ。オリジナルであれば、もっと人間離れした容姿をしているから。
人類に溶け込むことを選びながらも、京に流された怪。そういった輩は、オリジナルやデミ・ヒューマンであっても危険はないとナツユキは教えてくれた。
けれどそれも、こちらが余計な手出しをしなければの話だ。
彼らがその気になれば、この第一級閉鎖指定地区の人間を根絶するのに一夜とかからないだろう。そうしないのは、彼らは少なからず人間に対し興味や好意を持っているということだ。
「ほらほら、よそ見してると置いてくで」
「あ、うん」
景色に視線を取られ、遅れ気味になっていた僕は、あわてて日向冬乃を追いかけた。
溶岩のように輝く長い赤髪を揺らして、冬乃は退廃した街を先行する。堂々と、広い道路の中央を走りながら。一筋の炎のように。
現在の京に古都京都と呼ばれていた頃の趣は、ほとんど存在しない。変わらないのは、進行方向に聳え立つ、蝋燭のような形状の京都タワーくらいのものだ。それだって、旧京都駅に生えた巨大な神樹の陰に呑まれてしまっているけれど。
神樹が何なのか、人類は未だに解明できていない。判明している事実といえば、怪を生み出し続けている排除不可能な樹木ということだけだ。
七条通の中央を走り、烏丸通に差しかかったとき、ようやく喧噪が聞こえてきた。
何やら十数名の野次馬に囲まれた中央で、男女の言い争う声がしている。
「ケンカ……?」
野次馬は口々に無責任な言葉を投げかけて、彼らを煽っていた。それどころか、ここぞとばかりに商売を始める露店主までもがいる。
京であることを差し引いても、こういった手合いには関わらないに限る。ところが、迂回しようとした僕を尻目に、日向冬乃は迷うことなく野次馬へと両手を入れた。
「はーい、ちょっとごめんなさいよ。どいてどいて~」
僕は唖然として立ち尽くした。野次馬には人間もいるけれど、その半数以上がオリジナルやデミ・ヒューマン、つまりは怪だ。彼女はたった今、彼らに対して余計な手出しをしたのだ。
だけど――。
「お、おい、なんだよ、押すなよ! ……って、安機の鬼っこかよ!」
目の前の男がそう呟いた瞬間、野次馬の間で一瞬にしてどよめきが広がった。
「鬼っこ!?」「かあっ、安全機構かよ」「ちっ、せっかくの娯楽を」「バカ、聞こえるぞ」
まるでモーセの十戒のように野次馬が割れた。
その先では、ゆうに体長二メートル半はあろうかという全身に銀色の体毛を持つ二足歩行の人狼型オリジナルと、その半分ほどの身体しかない猫の耳と尾を持つ、可愛らしい栗毛のデミ・ヒューマンの猫娘が睨み合っていた。