表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/38

狐は去りし夢を見る ⑩

「……ッ」


 遙か遠くで、女の腕が地面に落ちた。女の顔が驚愕に歪む。

 けれど、同時に僕はその場に膝をついていた。心臓が凄まじい勢いで跳ね回っている。全身の力が抜けて、目を開けていることさえ億劫だ。うつむいた顔から、大量の汗が大地へと落ちてゆく。

 生体エネルギーを弾丸にして放つ拳銃(レンの弓)。なるほど、こういうことか。確かに僕では、一発撃つだけで精一杯だ。


「でも、やってやったぞ……!」


 しかし顔を上げた直後、僕は再び戦慄した。

 女にまとわりつく瘴気が彼女の腕のあった位置へと集中し、青白い肉片に姿を変え、ゆっくりと、だが確実に修復を行っている。

 瞬間的に歪んだ女の表情も、すでに痛みを堪えるそれではなくなっていた。無表情。虚無の感情。そこには嗤いすらない。


 バケモノだ……正真正銘の……。


 足元にまで広がりつつあった瘴気が、女の歩みとともに、徐々に高度を上げてゆく。足首から腿へ、腿から腹へ。

 恐怖のせいか、生命エネルギーを撃ったせいか、僕は地面に両膝をついたままで、力が入らない。

 近づいてくる。女が。


「――あ」


 女の足元から、金色の獣が飛び出した。少女狐は僕の周囲へといくつもの狐火を放って黒の瘴気を灼き払い、そのままの勢いで走り込んできて、僕の袖口を噛んで引っ張った。

 そうしてつぶらな瞳で、じっと僕を見上げる。

 立て、と。

 僕は瞬間的に思い出す。篠﨑貴守は死んだ。だけど、夏奈深雪は生きている。僕は何のために、魔都京都へやって来たんだ。

 歯を食い縛り、両膝に手を置いて立ち上がった。


「……こんなところで殺されてたまるかッ!」


 よろけながら後退し、転がしておいた原付を身体中で押すように立てた。背後に迫る足音を聞きながらキーをひねる。

 エンジンがかかった。

 とっさに少女狐を片手でかっ攫い、アクセルを開ける。背中にほんの一瞬だけ冷たい指先が触れたけれど、寸でのところで僕らは一気に距離を広げた。

 速く、もっと速く!

 あいつがその気になれば、原付の速度なんてどうということもなく追いつかれることくらいはわかっている。だからといって、あきらめてたまるか。

 城門をくぐって堀川通へと飛び出し、冬乃が倒れていると思われる南側へと疾走する。彼女を見捨てることはできない。

 アスファルトに倒れ伏した真っ白なコートの少女は、すぐに見つかった。

 不都合なことに、彼女の周囲には人だかりができてしまっていた。オリジナルやデミ・ヒューマンといった怪ならばともかく、警察官までもがいる。彼らは人間だ。瘴気には耐えられない。

 後方を振り返り、女がまだ追ってきていないことを確認して、僕は人だかりの近くに原付を停めた。


「安機だ! 道を空けて!」


 野次馬は怪だらけだけど、もうそんなことに構っていられる状況じゃない。その程度の恐怖は、あの女のものとは比較にならないほど軽い。


「早く退いて! 道を空けろ!」


 僕は無理矢理野次馬の隙間に身をねじ込んで警察官を押しのけ、うつ伏せに倒れていた冬乃を抱え起こした。


「冬乃!」


 全身血まみれだ。顔も頭部も激しく打ちつけ、コートもところどころ破れている。呼吸はしているが、目を覚ます気配はない。

 僕は彼女の腕をつかんで背中に引き上げ、そのまま背負った。思った以上に軽い。


「一条くんか!? これはいったいどういう事態なんだ? 二条城付近で火の手があがったって通報があったから来てみれば、日向さんが倒れていて――うわっ!? そ、その狐はあのときのッ!?」


 視線を上げると、警察官の里村連太郎がいた。ラルに折られた左腕は、やはり三角巾で吊られたままだ。


「里村さん!」


 よかった、まだツキはある。

 僕は最小限の言語で、状況を説明する。


「この狐にはもう害意はないから、追わないで! 事情はあとで必ず説明します! それよりも、すぐに付近一帯を避難させてください! ――みんなも、早く逃げろ!」


 僕は野次馬に、怒鳴りつけるように言い放った。どいつもこいつも顔を見合わせるばかりで動こうとはしない。同じ安機とはいえ、新人である僕の存在は日向冬乃や暁時人のように、この街に浸透していない。

 誰も僕の言うことなどに、耳を貸してはくれなかった。


「ちょ、ちょっと、一条くん。順を追って説明をしてくれないか」

「そんな暇は――!」


 野次馬の隙間、二条城の城門などくぐりもせずに、僕らのいる二条城南東付近の漆喰塀から堀を飛び越えて、女がアスファルトに降り立つ。

 ぞわぞわと蠢く黒の瘴気を伴って。

 来た! くそっ、近い!


「ア……ガ……ッ!?」


 野次馬の一人が、両手で首を押さえてその場に膝をついた。白目を剥き、ヨダレと涙を流して、そのままアスファルトへと前のめりに倒れ込む。

 怪だ。倒れ込んだその男は、人間ではなく確かにトカゲの身体的特徴を備えたデミ・ヒューマンだった。なのに、瘴気に負けた。

 人間だけじゃないのか!?

 崩れ落ちた男から白いモヤが抜け出して、漆黒の女へと音もなく吸い込まれた。女が舌なめずりをして、恍惚の表情を浮かべる。


「……ぁぁ……、……もっと……ちょ……だい……」


 今のが魂か!

 僕は叫ぶ。


「その女は死の瘴気を放つバケモノだ! 吸い込むだけで仮死者になる! だから早く、みんな逃げろ!」


 その言葉を皮切りに、パニックが起こった。足元に忍び寄っていた瘴気を蹴散らして、野次馬は四方八方へと逃げ出す。

 けれど、その大半が少し走った先で黒の瘴気に追いつかれて倒れ込み、モヤのような魂を抜かれて仮死者となった。女の瘴気は、魂を一つ喰らうたびに濃度を増し、その範囲を広げてゆく。徐々に力をつけているのだとわかる。

 くそ、くそ、逃げ出すやつから優先に襲ってる!

 この場に残ったのは、僕と里村連太郎だけだ。少女狐は狐火を僕らの周囲に放ち、忍び寄る瘴気を灼き払ってくれているが、これでは時間の問題だ。


「こ、こ、こんな……こんなことって……仮死者って……そんな……じゅ、十一年前の死神――」


 里村連太郎が拳銃(ニユーナンブ)を抜いた。


「だめだ、里村さん! 鉛弾なんかじゃ――そんなことより、僕が時間を稼ぎます! だから冬乃を連れてここから逃げて、安機と警察署に連絡をお願いします!」

「だ、だが、それでは一条くんが――」

「黙って息を止めて! 吸い込まなければ魂は抜かれない!」


 僕はもう一度拳銃(レンの弓)を構えて、女に照準した。

 僕の意志を汲んでくれたのか、少女狐が東方向へと狐火を放つ。瘴気の侵入を許さない炎のトンネルだ。


「しかし――!」

「ごちゃごちゃ抜かすなッ! もう時間がないんだ! あんたは警察で、僕は京都多種族安全機構だ! 何度も言わせるなッ!」


 里村連太郎は一度だけ僕に敬礼をすると、冬乃を僕の背中から引き下ろして肩に担ぎ上げ、呼吸を止めて炎のトンネルへと飛び込んでいった。

 女の視線が連太郎に向けられた瞬間、僕は左胸を狙って引き金(トリガー)を引く。


「あたれ――ッ!」


 距離はわずか十メートル。効くか効かないかは別として、外すことはない。

 両腕に響く確かな反動。光弾はまっすぐに女の胴体部へと迫る。しかし瞬間、女は目にも見えない速度で身をひねり、僕の生命エネルギーを使った弾丸を避けた。


「冗談だろ……。……う、く……」


 意識が途切れそうになった。視界が明滅し、立っていられなくて、僕はその場に両膝をついた。先ほど撃ったときよりも、肉体への副作用が強くなっている。

 生命エネルギーが切れかけているのか。


「はは……、……なんだよ、これ……ヒドい武器だ……」


 暁時人は言った。二発撃てば気絶、まかり間違って三発目を撃てば死に至る、と。

 でも、せめて冬乃が逃げ切るまでは……。

 異常に重く感じる拳銃(レンの弓)を、僕は両腕でどうにか持ち上げる。歩み寄ろうとしていた女の足が止まった。

 あたりさえすれば効く。だからこいつは避けたのだし、今も迂闊に近寄ろうとはしない。

 頭か心臓だ。そのどちらかを撃ち抜かなければ、このバケモノに致命傷を負わせることはできない。余計なことは考えるな。瘴気は少女狐が防いでくれる。


「どうした。もっと近くに来いよ、バケモノ。その距離じゃないと避けられないのか、ウスノロ。(ニンゲン)の魂が欲しいんだろ」


 銃口が揺れている。重くて重くて、こんな至近距離なのに照準を合わせることができない。正直、意識を保つだけで精一杯だ。

 汗の玉が滑り落ちて目に入っても、瞬きすらできない。五感が異様に鋭くなっているのか、自分の呼吸や心音がやけにうるさい。

 外すな。僕が放てる最後の一発だ。できれば撃ちたくなんてないけれど、黙っていたってどうせ殺されるなら。


「……こんなところで終わりか……。……ごめん、ナツユキ……」


 おそらくこの女にとっても、拳銃(レンの弓)は厄介な代物なのだろう。鬼神の一撃すら意に介さなかった女の腕を、一時でも吹っ飛ばしたのだから。

 だからかもしれない。僕らは気づかなかった。

 張り詰める空間。呼吸すら忘れた数秒間。金色の獣が、黒の瘴気を突き破って女の手に握られた小箱を掠め取る瞬間に。


「――ッ!?」


 少女狐は女から奪った小箱を口に咥えると、獣ならではの凄まじい速度で北方へと走り出した。アスファルトを蹴り、野生化した街路樹を駆け上り、ビルの屋上へと飛び移って空を駆けるように走り去ってゆく。


「……たま……しい……」


 とたんに女が踵を返した。漆黒のドレスを翻し、アスファルトを破壊するほどの恐ろしい脚力で跳躍し、狐のあとを追ってゆく。

 膝が震え、かろうじて保っていた全身の力が一気に抜けた。

 少女狐に、助けられた……。

 生き延びられたことを意識した瞬間、僕は拳銃(レンの弓)を取り落として、アスファルトを頬に感じていた。

 意識はそこで途切れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ