狐は去りし夢を見る ⑨
瞬間――。
最初に違和感に気づいたのは、少女狐だった。狐耳をぴくりと動かし、顔を上げた。その様子を見ていた冬乃の表情が、一瞬にして険しく変化する。
僕の全身が鳥肌に覆われたのは、その直後だ。
足元の大地が薄気味悪く歪んだ気がした。視線を地面に向けた瞬間、戦慄する。地面がない。まるでどろどろとした固まる前のアスファルトのように、うねる真っ黒な空間が広がっていた。
「な、なんだこれッ!?」
僕はその真上にいるというのに、落ちないし沈まない。
落ちるんじゃない。沈むわけでもない。そう、行くのではない。
「なにか……来る……」
無意識にそう呟いた瞬間、真っ黒な空間から不自然なほどに白い腕が伸び、中腰だった僕の首を恐ろしい力でつかんでいた。一瞬で呼吸が止まる。
「……カ……ヒッ!?」
恐怖を感じる暇もない。僕の視界に入ったものは、真っ黒な空間から這い出しつつある、仄暗い瞳をした長い黒髪の女だった。
もう一本の腕が女から伸び、僕の手の中の小箱を強くつかむ。
どす黒い唇が不気味に歪む。深く、深く、耳に達するほどに口角が引き上げられ、気味の悪い瞳が三日月型に曲がった。
「……フ……、フ……フフ……」
嗤う、嗤う、嗤う!
静かに、不気味に、厭らしく。女が嗤った。血の気のない青白い顔を歪めて、不自然なほどに赤い唇を持ち上げて。
僕は、恐怖した。一秒と経たず、全身に悪寒が走った。
これは違う。この街で見てきた怪などとは、全然違う別の生き物だ。カーテンの外にもカーテンの内にも、こんなものは存在しない。
してはならない。
一糸まとわぬ、裸の女。ただ黒の瘴気だけを従えて。
全身を駆け巡る怖気。しかし喉を締め上げられて悲鳴すら上げられない。血管が凍りついてゆくような恐怖に、気が触れてしまいそうになる。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。いっそ、意識を手放してしまいたいと願うほどに。
「絢十! 受け身取れ!」
冬乃が、首をつかんでいた白い腕を蹴って無理矢理引き剥がし、僕のコートの襟首を片手で持って、一気に後方へと投げる――!
「――ッ!?」
五メートル、いや、その倍以上の距離を、僕の身体は空を泳いだ。けれどうまく両足で着地をして地面を滑り、しかし勢いを殺しきれずに背中から転がった。
着地しやすいように投げてくれたのはすぐにわかった。僕は地面を叩いて跳ね上がり、もう一度両足を大地につける。
「かは……っ! ひゅぅ、はぁ、はぁ……」
貪るように呼吸をする。
視線を戻すと、ちょうど地面の闇の中から女の全身が這い出したところだった。
「――な……に……?」
少女狐と冬乃の、わずか三メートルほどの隙間。どろどろとした闇の中から、長い黒髪の女は浮上する。片手に、僕から奪い取った魂の小箱を握りしめて。
マヌケな僕は、ようやく気づいた。
奪われた! 多くの人の魂が入った小箱を!
取り返さなければならないとわかっているのに駆け出せない。恐怖が僕の身体を強く縛りつけている。今頃になって、全身から滝のように汗が流れ出した。上下の歯がガチガチと鳴り出す。
女が愛おしそうに小箱に頬ずりをして、長い舌をずるりと這わせた。
「……ぁあ……、……た……ましい……」
ぼんやりとした可愛らしい声ですら、気持ちが悪い。美しい容姿に、可愛らしい声だからこそ、余計に薄気味悪い。
拳銃を引き抜くことさえ忘れ、僕はその不気味な光景を凝視していた。いや、逃げる勇気さえ持てなかった。背中を向けることが怖くてできない。
女から徐々に広がる黒の空間が、冬乃や少女狐をも包み込んでゆく。まるで黒い霧だ。
冬乃が女に視線を向けたまま、早口に叫ぶ。
「絢十、もっと距離取れ! 瘴気や! 黒色の瘴気は死を運ぶ最悪の種類や! 吸い込んだら、人間なんて一瞬で仮死状態になるぞ!」
よく見れば、冬乃は凄まじい目つきで歯を食い縛っている。
余裕がないのだと気づく。人狼を手玉に取り、大地を揺らすような鬼神でさえも。ならばあれは、何者だというのか。
助けなければならない。でも、近づけない。人の身で瘴気を吸えば終わりだ。
目を虚ろに見開いたまま意識のみを失い、死の淵に立つ多くの仮死者たちの姿が、脳裏に思い出される。
一糸まとわぬ女が、両手を静かに振った。黒の瘴気が女にまとわりついて、その不自然なほどに青白い裸身を包み込んでゆく。
風が吹いた瞬間、黒の瘴気はゴシック調の漆黒のドレスへと変化していた。
「…………もっ……と……ちょう……だい……? た……まし……い……」
「誰がやるか、このクソボケ! さっさと異界に去ね!」
冬乃が大地を蹴った。空中で身をひねり、拳を強く引き絞って、黒の女の顔面へと拳を叩き込む。
「あああぁぁっ!!」
まるで大砲が着弾したかのような爆音が鳴り響き、大地が凄まじい勢いで上下した。
「うわっ!」
風圧で瘴気が円状に押され、僕は大急ぎで庭園の庭石へと身を隠した。手で口と鼻を塞ぎ、黒の瘴気が流れ去ったのを確かめてから、庭石から顔を覗かせる。
地面はめくれ上がって飛び散り、黒の女の立っていた位置は直系数メートルはあろうかというクレーターと化していた。地球上のありとあらゆる生物でも、きっと鬼神の一撃を受ければ砕け散ると思われる威力だ。
そう、地球上のありとあらゆる生物なら。
だが、女はそうではなかった。
僕は信じられない光景を見ていた。
クレーターの中央に立つ黒の女が、その額に突き立てられた鬼神の拳を受けた状態で、微動だにせずに嗤っているところを。
女はゆっくりと冬乃の手首をつかむと、次の瞬間には彼女を地面へと叩きつけていた。先ほど同様に大地が上下し、背中から叩きつけられた冬乃を中心として四方八方に亀裂が走った。
「がは……っ」
冬乃が大量の血を吐く。
「冬乃!」
息を止めて瘴気の流れをやり過ごし、僕は背中の拳銃を抜いた。しかし狙いを定めるよりも早く冬乃が立ち上がり、女の顔面をわしづかみにして大地へと叩きつける。
「こンのおぉぉぉ!」
地面深くに後頭部から沈み込む女は、それでも笑みを絶やさない。
「……フ……フ……フフ……」
それどころか逆に冬乃の腕をつかんで強引に起き上がり、直後にダンスでも踊るかのように身体を一回転させ、無造作に冬乃を真横へと投げ飛ばした。
冬乃の肉体が、まるで放たれたハンマーのように投げ飛ばされ、その背中で繁った樹木と二条城の漆喰塀を破壊して堀を越え、堀川通のアスファルトへと投げ出された。
距離にして六十メートル強。これ以上ない絶望感に、引き金にかけた指が震えた。
あれは、何だ……? 生物か……? 違う……断じて違う……。
首の骨でも折れたのか、女が首を直角に傾けたまま――こちらを振り返る。
全身が凍った。
まだ嗤っていた。無力なニンゲンである僕を見て、嘲り、嗤っていた。
「……ちょ……う……だい……、……たま……しい……」
そうして自らの手で側頭部を押し、不気味な音を響かせながら首を元の位置に戻した。
女がゆっくりと、僕のほうへと手を持ち上げる。その腕に巻きつくかのように、ざわ、ざわ、と黒の瘴気が集い始めていた。
冷や汗が目に入るのが、やけに気になった。
撃て、撃て、撃て――ッ!
女の足が動き出す。一歩、また一歩。黒の瘴気が女を中心にぞわぞわと周囲を這い回り、僕の足元にも広がった。
息を止め、僕は引き金を絞る――!
「あ……たれ!」
身体中から拳銃へと何かが引っ張り出されるような感覚を味わった直後、僕の身体は反動で後方へとよろめいていた。銃口を飛び出した光るエネルギー体が、女を包む黒の瘴気を突き破って、僕へと伸ばされていた女の腕を貫く。
女の腕があり得ない方角に曲がり、勢いそのままに後方へと持ち去って、肩口から先を大きく吹っ飛ばした。




