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狐は去りし夢を見る ⑧

 怒鳴られることを覚悟して、僕は大慌てで言い直す。


「ごめん、冬乃っ……ッ痛……」


 頭を打ったのか、こめかみが少し痛んだ。


「いい、気にしてない」


 最大のチャンスであるにもかかわらず、子狐は逃げることも襲いかかることもなく、ただ呆然と僕らを眺めている。僕が自分を庇ったことに気がついたのだろうか。だとするなら、やはり知能は相当高い。

 少し離れた位置で、子狐が「きゅう」と鳴いた。

 冬乃は僕を咎めなかった。それどころか多重に見える彼女の表情は、本当に安堵のそれで。数秒後になってようやく、赤い瞳から透明の雫がぽたぽたと落ち始めた。


「……よかった……生きてて……」


 変な鬼だな……。

 昨日今日会っただけの、それもゴミ漁りという最悪の出逢いをした人間を相手に、涙を流す赤鬼だなんて、昔話にだって出てきやしないだろう。今だって僕を心配しすぎるあまり、炎狐の存在を完全に忘れている。

 無意識に冬乃の頬に手をやって、僕は涙を拭う。

 僕は少し、ほんの少しだけ、日向冬乃に惹かれ始めていた。

 視界が徐々に戻ってゆく。


「ごめんな、冬乃。ちょっと炎狐と話したいことがあったんだ。決着をつける前に、僕に少しだけ時間をくれないか」

「うん……」


 誤魔化すように袖で涙を拭って、冬乃は視線を上げた。その先では逃げ出すこともせず、子狐がまだこちらを凝視していた。

 よかった、炎狐は無傷だ。やはり知性が高いのか、助けたことを理解しているようで、首にぶら下がったままの例の小箱の蓋を開けるつもりもなさそうだ。

 ぎりぎりだけれど、どうにか間に合った。

 僕は惜しむらくも冬乃の柔らかな膝に別れを告げて、上体を起こす。すぐに冬乃が両手で身体を支えてくれた。

 さて、ここからが勝負だ。僕は言葉を間違えてはいけない。


「……やあ、はじめまして。“馬に乗る少女狐”でいいのかな? 僕の言葉は理解できてるよね?」


 炎狐が二度瞬きをした。僕はそれを肯定と受け取って話を続けた。


「キミのご主人様に会ってきたよ。炎狐――いや、少女狐」


 祈るような気持ちで、僕はそう声をかけた。未だ子狐に大きな反応はない。冷や汗が背中を伝って下りてゆく。

 違ったか……? この子狐は馬に乗る少女狐ではなかった……?


「キミが何をしようとしているのかも、わかった」


 だけどもう引き返せない。

 緊張で貼りつきそうなほどに渇いた喉に、唾液を飲み下す。


「――篠﨑、貴守」


 炎狐の狐耳が、ぴくっと震えてわずかに持ち上がった。


「篠﨑貴守? 誰や、それ?」

「少女狐に騙されていた武士の名前……かどうかはわからないけど、少女狐を助けた人間だってことは間違いないと思う」


 今昔物語集第二十七。

 馬で高陽川を通って京へと向かう人たちがいると、美しい少女がどこからともなく現れて、馬の尻に乗せてくれと頼んでくる話がある。その道々で少女は狐となって突然姿を消し、人々を驚かせて楽しむ。しかし、やがて少女狐の悪戯は皆の知るところとなり、一人の武士が騙されたふりをして彼女を捕らえ、仲間と一緒になって体毛がなくなるほど火を押しつけて懲らしめたという話だ。

 彼らは狐の生命までは取らなかったが、怪とはいえそのような状態になった生物が自然で生き延びられるものだろうか。だから僕は、少女狐を助けた人物がどこかに存在すると考え、噂や伝承を辿って捜していたというわけだ。


「篠﨑貴守が誰かは知らない。物語の中には出てこなかったから。でも彼は、少なくとも平安時代には亡くなっているはずなんだ。この話は今昔物語集の中の話だから」


 少女狐が悲しげに「きゅうきゅう」と二度鳴いた。それは、とても切ない響きだった。

 そうしてゆっくりと口を開け、僕が魂を吸い取られかけた瞬間と同じように、辿々しく、言葉を発した。


「……たー、たか……も……、……いー、いき……かー……えす……」


 まるで存在しない声帯から、どうにか人語を絞り出しているかのように。


「……たー、たまし……ある……、……い……きかえー……る……」


 わかるよ。寂しいよな。ずっと長い間、それこそ平安時代から気の遠くなるくらいの時間が過ぎて、平成の世になるまで、あの墓前で篠﨑貴守との想い出だけを抱えて、生きてきたのだから。

 平成の世に、神樹に生み出された怪ではない。彼女はずっとこの世界で身を潜めて生きてきたんだ。主人の墓をたった一匹で守りながら。


「……たかも……、……あぶらあげ……、……おいし……」


 辿々しい言葉で懸命に口を動かす子狐の瞳は、あまりに純粋だった。

 でも、ごめんな。

 僕にはキミを応援してあげることはできない。できないんだ。

 怖がらせないように、ゆっくりと少女狐へと歩を進めようとした僕の手を、冬乃が心配そうな表情でつかむ。


「大丈夫」


 僕は冬乃の手をそっと払い除けた。


「そやけど――」

「あの子を救えるのは今しかない。今話せなきゃ、殺すしかなくなる。僕はあの子を、助けたいんだ。だから、やらせてくれ」


 冬乃が赤い髪を揺らして、小さくうなずいた。僕は一歩ずつ、少女狐へと近づく。


「……たのし……たのしい……、……いっしょ……また……いっしょ……」


 つぶらな瞳で僕を見上げ、辿々しく、想い出を語ろうとする子狐。この子狐を殺すのに、拳銃(レンの弓)は必要ない。

 僕は子狐の前に跪き、静かに告げた。


「篠﨑貴守は、生き返らない」

「……うれし……うれ……?」


 子狐の言葉が止まった。ぽかんと口を開けて、僕を見上げている。


「怪のことはわからないけれど、人間は一度死んだら生き返らない。どれだけ他人の魂を、何百、何千と集めたって、生き返らせることはできないんだ」


 少女狐が瞬きをした。


「魂は、一人に一つしかない。代わりはどこにもない。他人の魂じゃ、だめなんだよ」

「……いき……かー……え……?」


 少女狐の口が再び開かれ、言葉の途中で閉ざされた。

 冷たい冬の風が流れて、小さな炎を微かに揺らした。


「生き返らない」


 小さく一度「きゅう」と鳴いた子狐の首が、わずかに傾けられる。


「キミはもう二度と、篠﨑貴守に逢うことはできない」


 僕には獣の表情というものが、よくわからない。たぶん、冬乃にも。けれど、このときの少女狐の声は、胸が締めつけられて息苦しくなるほどの響きだった。

 一千と二百年の純粋な想いが、泡と消えた。僕が消したんだ。


「……たー……、……たか……も……? ……あー……あーー……あぁぁーー……!」


 少女狐の呼吸が荒くなってゆく。僕らを取り巻く冬の気温が、急激に上昇した。


「絢十! それ以上は危険や! 離れろ!」


 少女狐の周囲にいくつもの狐火が顕現する。けれど、掠めた炎が頬を灼いても、僕はその場に留まった。

 哀れな子狐にとどめを刺さなければならない。もう、終わらせるんだ。ここで。少女狐の千年もの――いや、これから先も無限に続くであろう妄執を、断ち切ってやらなければならない。

 熱風が吹き荒れる中、顔を上げる。堂々と。

 そうして僕は、残酷な言葉を吐いた。


「何かもが無駄だったんだッ! キミがしてきたことは、篠﨑貴守を失ったキミ自身のように、悲しみに暮れる残された人を無為に増やしていただけに過ぎない!」


 瞬間、こちらに駆け出そうとした冬乃の目前で狐火が爆ぜた。冬乃が両腕で自らをガードして、爆風に大きく後方へと吹っ飛ばされてゆく。


「……ッ……絢十、それ以上はアカン! 逃げろ……!」

「何人も何百人も犠牲にして、その何倍もの数の人々を悲しませて泣かせたって、おまえの願いは叶わないんだッ!!」


 両足で大地を掻いて着地した冬乃へと、いくつもの狐火が降り注いだ。


「きゃあっ!」


 狐火は縦横無尽に飛び回り、そこかしこで誘爆を起こす。熱波が何度も僕らへと打ちつけられ、着衣が炎を宿した。

 熱い、痛い、怖い! でもこれが、おまえの本当の力なんだろ!?

 少女狐は、冬乃との戦いでは全力を出していなかった。迷っていた。他人から魂を奪うことを。こいつは悪い怪じゃない。

 とびきりいい奴だ! ただ、悲しいくらいに純粋過ぎた!

 少女狐の全身から、青白い炎が立ち昇った。自ら熾した炎に身を包まれ、少女狐はヒドく甲高い悲鳴を上げていた。

 おまえは罪を犯した! だけど、仮死は死じゃない! まだ誰も死んでいないうちなら、やり直せるはずだ!


「……絢十ッ! そいつ自滅する気や! 早よう下がれ! 巻き込まれる!」


 冬乃が悲痛な声で叫んでいる。行く先々で狐火が爆ぜて、近づいてはこられない。僕は少女狐に視線を戻した。

 金色の毛皮に炎が踊る。

 耐えきれなかったんだ。平安から続く一千と二百年を超える想いは、身体を徐々に蝕んでゆく呪いにも等しい妄執だ。彼女はそれに耐えきれなかった。

 だけど僕は、キミを死なせたりはしない。

 うねる炎の中で、冬乃の叫びが聞こえる。もう言葉は聞き取れない。狐は火柱となり、自らの身を灼いてゆく。

 苦しげに呻き、鳴き、泣き、叫び、自らを灼き尽くそうと狐火を出し続ける。

 生きる意志を、意義を、意味を、すべて失ったんだ。

 それでも、僕はキミを見捨てない。これ以上罪を重ねさせもしない。

 救うと、そう決めたから!


「く、おおおおぉぉぉーーーーーーーーーっ!」


 両腕で爆風熱波を防ぎ、炎の中へと前進する。灼かれながら、一歩、また一歩。

 ――アアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーッ!!

 涙を流し、攻撃性の咆吼を僕へと上げた少女狐に――。


「……ッ!?」


 僕は、両手を伸ばした。

 一瞬で灼けてゆくコートの袖。触れた掌が爛れてゆく。僕は炎の塊と化した少女狐に頬をすり寄せ、強く抱きしめる。

 頬が焦げる音がした。

 伝わる痛みが、全身を痺れさせる。だけど、肉体の痛みなら耐えればいい。


「もういいよ……。……もう、いいんだ……」


 でも、心の痛みは耐えきれない。耐えきれなかった。

 キミは、僕に似ている。

 瞬間、空間を縦横無尽に飛び回っていた狐火も、それまで大地で踊っていた炎も、少女狐を包んでいた炎も、まるで夢幻だったかの如く搔き消された。


「……もう、これ以上、自分を苦しめるのはやめてくれ……」


 少女狐は僕の腕の中から、涙でぐしゃぐしゃになった視線を上げていた。彼女は、まるでヒトのように泣いていた。僕はその耳元に口をあて、ゆっくり静かに囁く。


「行き場のない思いは、つらいなあ。僕も味わったことがあるから、わかるよ。キミと違って、ずっと短い期間だったけれど――それでも」


 僕がナツユキの手を放してから、たったの十年。だけど、耐え難い十年だった。後悔し、苦しくて、罪悪感に苛まれ、ただひたすらに苦しくて。結局耐えきれなくなって、僕は京へとやってきた。篠﨑貴守と違って、夏奈深雪はまだ生きてる。

 あの大切な時間は、まだ取り戻せる。

 だけど、この子狐は千年以上もの間、苦しんでいた。こんなにも小さな身体に、僕の百倍以上の苦しみを封じて生きてきた。決して戻ることのないときを、ただひたすらに願いながら。


「あ、絢十……」


 呆然と、冬乃が荒い息でゆっくり近づいてきた。

 たぶん、沈静化した少女狐を刺激させないためだろう。純白のコートが、何カ所も焦げて黒く染まっている。

 少女狐が僕の頬の火傷を舐めながら、「きゅうきゅう」と鳴いていた。


「ごめんな。僕ら人間は、一度死んだらどうやっても生き返らない。篠﨑貴守はもう、キミの想い出の中にしかいない。それは変えようのない事実だ。でもね――」


 少女狐を地面に置いて、僕は最高の笑顔で言ってやった。


「また、ここから始めないか? 僕はキミの、友達になりたいんだ」

「……ともー……と……ち……」


 恐れていた怪に対して、僕は何を言っているのか。ほんの少し、いや、昨日までの自分だったら間違っても言えない言葉だったと思う。

 少女狐は僕らを見上げて「きゅう」と一度だけ鳴いた。ぽろぽろと泣きながら、鳴いた。それは人語ではなく狐の言葉だったのだと思うけれど、僕は深くうなずいた。


「ああ、いいよ」


 表情など変わらないというのに、ほんの少しだけ、少女狐が笑った気がした。恥ずかしそうに、照れ臭そうに、少しだけ嬉しそうに。

 冬乃が顔に手をあてて、ため息混じりに呟く。


「……絢十、お願いやから、次からムチャするときは、うちにあらかじめ言うといて」

「言いたかったけど、そんな時間なかったんだよ。……また泣いてくれてるの?」

「な、泣いてへんわ!」


 確かに。怒っていらっしゃる。今回はさすがに無理をした。少女狐の加減があったのか、火傷はわりと軽傷のようだったけど、全身もうガクガクだ。


「ごめんな、冬乃。説得の機会を与えてくれて、ありがとう」

「ア、アホか! す、すす救える選択肢があるんやったら、うちかて助けるわ! それが京都多種族安全機構やからなっ! ――でも、ムチャはなるべくやめて。やるときは、うちを巻き込んでからにして。蚊帳の外やなんて信じられへん……」


 なぜか真っ赤になって、胸の前で両腕を組み、ふてくされる赤鬼。

 勝手に少女狐の出所を調べて、単独で動いていたことを怒っているようだ。

 そのあと、冬乃は大きなため息をついてから、僕の頬に手を這わせた。わずかな痛みに、僕は顔をしかめる。


「火傷、小さいけど残ってしまうかもしれんね」

「いいよ。こんなの勲章だ」


 右頬の皮一枚で、少女狐の命を救えたんだ。悪くない取引だった。


「……たー、た……まし……」


 少女狐がヒョイと後ろ足で立ち上がり、二本の前足で首輪に提げられていた小箱をつかんだ。そのまま小箱を外すと、よちよちと後ろ足だけで歩み寄り、僕に向けて小箱を器用に差し出す。


「……も……もす……? ……もどー……す……して……」

「ああ、うん。ちゃんと返してやろうな」


 僕は冬乃に視線をやると、冬乃が一度うなずいた。それを確かめてから、小箱を両手で受け取る。一辺がわずか三センチほどしかない、小さな小さな箱だ。

 ひんやりとしていて――重い。

 重量ではなく、この中に数十名もの魂が込められているのだから。


「確かに、受け取ったよ」

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