狐は去りし夢を見る ④
◇ ◇
事務所に帰ってくるなり、絢十は階上の自室に籠もってしまった。
わたしは、課長のデスクの上の置き手紙を丸めて捨て、ため息をつく。どうやら課長は戻ってきていないようだ。
やはり絢十を危険な現場には連れてゆくべきではなかった。
幸か不幸か黒電話は鳴らない。おそらく、仮死者の出る事件が起こったということを警察が発表して、インフラを通じて住民に行き渡ったのだろう。今頃出歩いている人間はよほどのマヌケか、自殺願望でもあるに違いない。
「仮死者か……」
課長のデスク横にある資料棚から、古びた一冊の事件ファイルを取り出し、わたしはソファに腰を下ろした。
一度大きく伸びをしてから、ページをめくる。
仮死者。長く京に住んでいると、嫌でも耳に入る昔の事件――。
十一年前、わたしがまだ京都多種族安全機構の存在すら知らずに、カーテンの外側にいた頃。何らかの方法で異界神に位置する怪を召還した男がいた。
召還された異界神は、死の瘴気を放つ怪だった。
その件の死者は実に一八〇〇名以上。神の放つ瘴気に感染して助かったものは、一人もいない。
当時の京都多種族安全機構が、構成員の一人を除いて全員を失うほどの熾烈な戦いの末に異界神を弱体化させ、異界へ押し戻すことには成功したものの、一連の事件を引き起こした男は依然として行方不明のままである。
カーテンがある限り、この第一級閉鎖指定地区を出られるわけがないというのに。
けれど、今回の仮死者はそうじゃない。狐は神の眷属であっても、どちらかといえば妖怪に近い存在だ。狐は現世の怪であることからも、「異界に押し戻す」という点で符合しない。そもそも、あの狐からは瘴気など発生していなかったのだから。
「形態から推測するに、炎狐か。これやったら、うちにも解決できるな」
現世の神である狐は並々ならぬ相手ではあるが、異界の神に比べればどうということもない。現世の神が混じっているのは、魂と肉体のおよそ半分が鬼神となってしまった、わたし自身も同じなのだから。
仮死者のリミットまで、およそ二十時間といったところか。今夜も忙しくなりそうだ。
絢十は、少し休ませてあげたいな。初日から、とんでもないものを見せてしまった。
あとでお昼ご飯を持っていってあげよう。うん、そうしよう。オムレツでいいかな。喜んでくれるかな。夏奈深雪だけじゃなくて、日向冬乃のことも少しは気にかけてくれたらいいのに。
ありがとう、冬乃。こんな手料理までできるなんて、素敵な女性だったんだね。これからは僕のために毎朝味噌汁を――。
「か~、寒ィ寒ィ。よお、戻ったぜ」
突然ドアが開き、思考を深い妄想の海に沈めていたわたしは驚いて両肩を跳ね上げた。
残念ながら絢十ではない。課長だ。ハットを片手で取って、課長が眠そうに呟いた。
「………………な、何を一人でクネクネしてんだ、おまえ……」
「う、うっさいわ! 課長には関係ないやろ!」
まったく、この大変なときに今さらノコノコ帰ってきたりして。
「けんけん突っかかりなさんなよ。恋する乙女は可愛いねェって思っただけだよ」
「こ、恋とか!? 誰が誰にやねん!?」
バカにして。意地でも表情になんて出してやらないんだから。
「それに課長に可愛いとか言われても、なんっも嬉しないっ。どーせ課長はボインボインの柔らかセクシーなオネーチャンしか興味ないやんか。うちかて、心にもないこと言われて喜ぶほどガキやないわ」
課長がコートをコート掛けに投げ、デスクの椅子を引いた。半笑いで椅子に座って両手で後頭部を支え、長い足をデスクへと投げ出す。
これがこの人の、スタンダードな座り方なのだ。ほんと、オヤジ臭いしタバコ臭いしスケベ臭いし、下品極まる。
「なんだ、おまえ? 俺に好かれてえの?」
「死んでもいらん! ドブに叩き込んだるわ!」
「ハハ、俺もだ。鬼だし硬そうだからな。色気もまだまだ足りん」
「ぐう……っ」
「おっ、ぐうの音が出たねェ」
突っ込む気も起きない。
だめだ。この人と会話をしていると、白目剥いて泡を噴いてしまいそうになる。口喧嘩で勝てたことなんて一度もないのだから。
「い、いつか殺すっ」
「そいつぁ手厳しいね。――さて、と」
突然声のトーンを落とすと同時に、課長の視線が鋭いものへと変化する。いつもは眠そうな半眼なのに、仕事となれば仄暗い殺し屋のような目をするのだ、この男は。
「仮死者の件はどうなった?」
こういうときの暁時人は、やはり怖い。力があるだとか強いだとか狡猾であるといった、単純な強弱の問題ではなく、生物的に危険なのだ。猛毒を持つ蛇に似ている。
「出先でケーブルの放送を見て知った。早々に切り上げて戻ってはきたが……絢十はどうした?」
「ショック受けて部屋で休んどる。ちょっとばかり刺激が強すぎたかもしれん」
少しだけ何事かを考えるかのような素振りを見せたあと、課長はわたしの手の中のファイルに視線を向けた。
「死の瘴気か?」
「いや、瘴気じゃなかったわ。狐の一種や。獣の形態から察するに炎狐と思う。狐火も従えとったしな」
ほんのわずかに、課長が視線を弛めた気がした。
やはり十一年前の瘴気を放つ異界神の事件のことを考えていたのだろう。そういえば暁時人は、あの事件のときすでに安機に入っていたはずだ。旧安機のたった一人の生き残りとは、やはり課長のことなのだろうか。
「炎狐か。そいつは僥倖。もしその個体が妖弧だったら、鬼神でも手を焼くところだ。だが、どうして狐が人の魂を欲しがる? 贄を欲する時代でもあるまい」
そこはわたしも疑問に感じていたところだ。
「課長、魂を吸う小箱って聞いたことある? 炎狐の首輪にぶら下がっててんけど」
「……ねえな」
京都多種族安全機構の暁時人が知らないのであれば、それは伝説上のものではなく、現代に於いて何者かが何らかの目的を持って新たに作り出した呪具か祭具と考えるべきだ。
「妖弧ならばともかく、炎狐ごときの知性でそんなものを作る可能性も皆無だ」
わたしの思考を先回りして、課長が呟いた。
「裏に何者かがいるってことやな。そいつが炎狐の首輪に小箱をつけた。飼い主か?」
「どうかねェ。そればっかりはわからんよ。炎狐本人にでも聞いてみねえとな」
長い息を吐いて、課長がタバコを咥えた。わたしはわざとらしく足音を立て、換気扇のヒモを引っ張った。
まったくもって面倒くさい。自分で回せ、バ課長め。
「タイムリミットは?」
「通報が入った時間から逆算して、明日の午前九時、いや、八時や。残り一日もあれへん」
タバコの臭いは嫌いだけれど、オイルライターの蓋が開く音は嫌いじゃない。
じじっと音がして、炎がタバコの先に灯る。課長が静かに紫煙を吐き出した。
「…………また、眠れねえな」
ぼうっとした声で課長が呟いた直後、ドアがノックされた。正確には違うけれど、戒厳令状態の京の街では、依頼者ということもないだろう。
「客じゃねえんだ。ノックはいらねえよ」
課長の声に続いて、ドアが開かれた。そこには今から出て行くことを示すように、コートを着込んだ絢十の姿があった。
わたしは大慌てで立ち上がる。
「ちょ、ちょっと絢十! どこ行くん!? ……まさか、さっきの一件でもう辞めるつもり?」
「へ?」
絢十が目を丸くして、首を勢いよく左右に振った。
「いや、まだ辞めないよ。ちょっと調べたいことがあって出かけてくるだけだから」
「調べたいこと?」
絢十がわたしにうなずいて、課長のデスクへと歩を進めた。
「暁課長、少しの間、拳銃(レンの弓)をお借りしても構いませんか?」
課長が眉をひそめる。
「ああ? おめえ、まさか一人で狐をやっつけるつもりか? わかってると思うが、ただの狐じゃあねぇよ。ありゃあ、炎狐っつー炎を操る狐だ」
「だめ! 絶対だめ! そんなことさせられない!」
わたしは絢十の腕をつかむ。
絢十はわかっていない。炎狐というものの危険性を。力自体はさほどのものではないけれど、下手をすれば付近一帯を火の海にすることだってできる怪だ。その場合、パワーバカの人狼などとは比較にならないほどの人的被害が出る。
けれど絢十は指先で頬を搔いて、こちらが拍子抜けするくらいの苦笑いを浮かべた。
「あはは、まさか。僕にはそんなことできないよ。拳銃(レンの弓)は護身用。さっきも言ったろ。調べたいことがあるって。場所はもうつかんでるから昼すぎには戻るよ。……あ、逃げたりしないから。ろくなものが入ってないけど、荷物は部屋に置いていくよ。だからゴミ漁りで通報するのだけは勘弁して」
課長が天井へと向けて紫煙を吐き出した。コンクリート剥き出しの天井は、すでにヤニで黒く染まってしまっている。
「……で、おめえの調べたいことってのはなんだ?」
「それはまだ言えません。僕の勘違いかもしれないし、不確かなことをここで語ることで、課長や冬乃の捜査に支障をきたすかもしれないから。その……すみません」
「ふむ」
顎の無精髭を撫でて、課長は値踏みするような視線を絢十に向けた。
わたしは反対だ。絢十はこの街にまだ馴染んでいない。魔都では、こういう人が一番危険なのだ。絶対に一人で行動なんてさせるべきじゃない。
「いいだろう。拳銃(レンの弓)は預けとく。余計な怪に絡まれそうになったら、チラつかせてやりゃあいい。あわててケツまくって逃げるだろうよ」
「課長……ッ!」
わたしの抗議を黙殺して、課長は眠そうな半眼でため息をついた。
「京都多種族安全機構のモットーは、すべての種族に“規定に基づく自由を与える自由”だ」
「そういうの、世間では無責任って言うんや! 絢十が死んだらどうすんねん!」
「ハ! 長え間ここにいて、今さら何抜かしてやがる。そいつも自由だ」
ああ言えばこう言う。わたしは両手で頭を搔き毟り、やぶれかぶれで吐き捨てる。
「じゃあ、わたしは絢十についていく」
返事は意外なところから来た。
「それはだめだ。僕の考えはあくまでも推測であって、確定じゃない。二人が自分の捜査を続けていないと、推測が外れていた場合には、最悪、現在出てる仮死者が全員手遅れになる可能性が高い。手分けしよう、冬乃」
バカ、このバカ! 正論バカ! 正しいバカ!
よほどヒドい表情をしていたのだろう、絢十がわたしを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だよ。危険なことはしないって約束する。心配してくれて、ありがとう」
「うう……、し、心配なんかしてるかーっ! 勘違いすんなタコッ! いちびっとったらケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわしたるぞ!」
だめだ、言い過ぎた。絢十がしょんぼり顔になっている。
課長が足をデスクから下ろして、タバコを灰皿でねじ消した。
「さて、飯食う暇もねえが、俺はそろそろ出る。魂を吸う小箱とやらが気になってねェ。誰が作り、誰が与えたのか。いや、それよりも、魂を小箱に保管する目的は何か。……絢十、おまえの調べたいことと被ってるか?」
「いえ、違います」
課長の表情に悪そうな笑みが浮かぶ。
「……ほう、そいつは重畳。俺にゃ見えてねえもんが、おまえさんにゃ見えてるってことだ。案外おまえ、この仕事向いてるかもしんねえぜ。――じゃ、冬乃は炎狐の捜索な。やり方は任せる。今日はもう依頼はねえだろうから、全員、携帯の電源は入れとけ。何かあったらすぐに集まれるようにしろ。いいな?」
「はい」
絢十が即答すると、わたしは不承不承にうなずいた。
「……はい」
こうなってしまっては仕方がない。本当は使いたくなかった手段だけれど、絢十にムチャなことをさせないよう、釘を刺すくらいのことはできるだろう。
他ならぬ夏奈深雪からのメッセージなら。
後で、少しだけ活動報告を書きますね。
作家志望者の方には参考になるかも、という情報を聞きましたので。




