狐は去りし夢を見る ③
直後、心臓が大きく跳ね上がった。
子狐に吸い寄せられるような感覚に陥ったのだ。いや、吸い寄せられるというよりも、落ちてゆく。上流から下流へ、上から下へ。子狐へと落下してゆくような感覚に、視界がブラックアウトする。
「絢十、そいつから距離取れ!」
真っ暗な視界の中で冬乃の声が響き、大地が一度だけ激しく上下した。飛び散ったアスファルトの破片が頬を斬り裂き、飛んでゆく。
瞬間、視界が戻った。
心臓は断続的に鼓動を刻む。強く、大きく。全身から恐ろしい量の汗が噴出した。
目の前には、アスファルトをクレーター状にして拳を突き立てた冬乃と、腰を抜かした警察官。そして遙か遠く、いつの間に登ったのか、建物の屋上で背中を向けて、北の方向へと走り去ってゆく子狐――。
「絢十! 絢十! 意識はあるかっ!?」
泣き出しそうな表情の冬乃に肩を揺さぶられて、僕は勢いよく頭を振った。
「……い、今、何が起こったの?」
僕がそう呟いた瞬間、冬乃の表情に安堵が満ちた。僕の肩から両手を滑り落とし、冬乃は長い長い息を吐く。
「よかった……間に合ってた……。……あんた今、魂抜かれかけたんよ……」
「え……」
僕は、仮死者にされかけていたのか。そうか、あれが魂を抜かれるという感覚。
全身に鳥肌が立った。恐怖が今になって押し寄せる。
「瘴気じゃなかった。たぶん、首輪から提げられてたあの小箱や。あんたの魂が、小箱に吸い込まれかけてんのを見た」
冬乃が親指を噛んで、悔しげに吐き捨てた。
「ああ、もう! そうとわかってれば、遠慮なく小箱を狙って攻撃したのに!」
親指を噛むクセ。懐かしい。
ナツユキも、泣きながら親指を噛んでいたっけ。
「ごめん、冬乃。撃てなかった」
あの子狐の瞳が、まるで何かを訴えてきているようで。途端に殺すことが怖くなった。
「アホ、そんなもんどうでもええわ。もともと、うちが全部一人でやるつもりで連れてきてんから。うちが絢十のこと、ちゃんと守らんとあかんかってん」
その言葉は冬乃の優しさから出たものだったと思うのだけれど、僕は少なからずショックを受けていた。
戦力外。そう通告されたようで。
「あ、あの――」
僕と冬乃が同時に顔を上げた。腰を抜かしていた警察官だ。
「あ……」
見覚えがあった。人狼にぶん投げられて車の屋根に叩きつけられ、事件解決後も泣いていたあの警察官だ。左腕の三角巾は、あのときの負傷だろう。
顔つきはまだ若く、成り立てで魔都に飛ばされてしまった感が否めない。
「ああ、人狼のとき泣いとった警察の……えっと――」
冬乃が警察官を指さして、口をもごもごと動かす。警察官があわてて警察手帳を取り出して、自らの名を口にした。
「里村連太郎です。……泣いていたのは忘れてください……」
「うちは安機の――」
警察官が冬乃の言葉を遮って、興奮気味にまくし立てた。
「――安機の赤鬼、日向冬乃さんですよね! この前はそうとは知らず、挨拶もせずに失礼いたしました! お噂はかねがね山本警部から聞いています! なんでも、太古より鬼神を祀る一族の巫女様で、実際にその力を持って生まれられたとか!」
声がでかい……。
その程度のことは、今さら驚くような情報じゃない。彼女が赤鬼の怪であることは、僕はもう知っているのだから。
おそらく、父親か母親のどちらかが人間で、もう片割れが神樹に産み落とされたオリジナルの怪、つまり彼女はデミ・ヒューマンだということだ。
冬乃が渋い表情をして、不機嫌そうに頭を搔いた。
「里村連太郎っていうたっけ? うち、勝手に色々調べられんの、あんまり好きやないねんけど」
里村連太郎が、あわてて頭を下げる。
「す、すみません。こんな魔都と呼ばれるような街にも、警察には凄く頼りになる味方がいるんだなって思うと、つい嬉しくて。――キミも、来てくれてありがとう。大丈夫だったかい?」
ふいに向けられた視線に、僕は戸惑った。
「え、ええ。でも僕は何もできなくて……」
言葉が途切れた。
あまりに情けなくて、何を言っていいのかすらわからない。微力ながらも冬乃のサポートをするつもりでついて来たのに、結果は足を引っ張っただけで終わってしまった。子狐を取り逃したのは、僕の責任だ。
心情を読まれたのか、冬乃があわてて話題を逸らしてくれた。
「それより連太郎。早ようお仲間を運んだったほうがええよ。仮死者じゃ治療もしてあげられへんけど、道端に転がしとったら、アホが集ってきて身ぐるみ剥がされるかもしれん。病院なり警察署なりに収容したったほうがええ」
「はい!」
言葉を聞くや否や、里村は腰に装着していた無線機を口元にあてた。
「救援を呼びました。すぐに来るそうです」
「うん。あんたも、よう頑張ったな。うちらが来るまで足止めしてくれてて助かったわ。連太郎がおらんかったら、犠牲者の数はもっと増えてたわ」
「いえ、自分なんて何もできず――」
京を守るもの同士の会話に、僕の居場所はない。正直に言うと、冬乃と真剣に治安について語る彼に、僕は軽く嫉妬していた。
この警察官、里村連太郎は、ただの人間だ。おまけに大人のクセに泣き虫で、何の役にも立っていない。いや、倒れた警官同様、壁となって一般人を逃がすくらいのことはしただろう。
今の僕は、それ以下だ。
人狼のときには足が竦み、彼のように猫娘と人狼の間に入ることなどできなかった。今回だって、彼は仲間がやられて一人になっても、あきらめずに戦った。
これじゃナツユキにあわせる顔がない。冬乃だけじゃなくて、ナツユキの足まで引っ張るつもりか。
この仕事は続けられないし、近いうちに辞めるつもりではいる。
でも、このままじゃまだ終われない。




