安穏とした日々の崩壊(後編)
屋敷内を案内していた執事がドアの前で立ち止まりノックをした。
「奥方様、お客様でございます」
「入って」
凛とした響く声を合図に執事がドアを開ける。
部屋の中には赤ん坊を抱いた、二十歳後半ぐらいの美しい女性がベッドの上に座っていた。
師匠の色素が薄い金髪と違って、太陽の光のように強く輝く金髪に、木のように生命力溢れた緑の瞳。その女性がいるだけで部屋全体が明るくなる。
そんな女性に師匠は穏やかな笑顔で声をかけた。
「お疲れ様。大変だったみたいだね、リア」
リアが軽く笑う。
「想像以上に痛くてね。無意識に魔法を発動したみたいで、別館が一つ全壊したわ」
そう言ったリアの視線の先には、無残に崩れた小さな家がある。
「なにはともあれ、赤ちゃんが無事で良かった。君に似て可愛らしいな。女の子だよね?」
「そうよ」
とりあえず第二の別館となる刑はまぬがれた。
胸をなで下ろしたおれは、赤ん坊を見ようと白い初着の中を覗き込んだ。
白い肌に大地のような茶髪をした赤ん坊だ。目は閉じているため見えないが、なんとなくリアに雰囲気が似ている。
おれは初めて見る赤ん坊というものをマジマジと観察した。
眠っているので動きはないが、なんとなく目が離せない。その時は、それからずっと目が離せなくなるとは思わなかったが。
そんなおれの様子など気にすることなく、師匠とリアが会話をしている。
そこで、ふと赤ん坊が静かに目を開けた。どんな木々の葉よりも瑞々しい緑色で宝石のように透き通っている。
おれがその目に見惚れていると、赤ん坊が微笑んだ。そして小さな手を出してきたのだ。
おれは、その小さな手に自分の手を差し出した。
そこでおれは信じられない体験をすることになる。いや、これはこれから始まる苦悩の日々への序章でしかなかった。
微笑んでいる赤ん坊の小さな手から、風の刃が発せられたのだ。しかも、その威力が尋常ではない。
「水の精霊よ。わが身を守れ!」
おれは反射的に魔法で防壁を作ったが、防壁で守られた場所以外は見事に斬られていた。
上は天井から空が見え、下は床を突き抜けて地面に埋められている基礎石まで斬られているほどだ。
魔法を唱えたままの姿勢でおれは固まった。魔法の詠唱があと二秒遅ければ、おれは真っ二つになっていただろう。背中に冷たい汗が流れた。
この世界の魔法は大きくわけて、二種類存在する。
一つは、おれが今使った呪文を詠唱することで、精霊の力を借りて発動する魔法。
もう一つは、魔法陣を床に書いたり、頭の中で魔法陣を構築することで発動する魔法だ。
精霊の力を借りる場合は、あまり魔力を必要としないが、魔法陣を使用する場合は、多くの魔力を必要とする。
だが、この赤ん坊はそのどちらでもない魔法を使ったのだ。たぶん純粋に魔力をぶつけてきただけなのだろう。だが、それにしては魔力が強すぎる。
呆然としているおれを無視して、リアは楽しそうに赤ん坊を見ながら言った。
「さすが私の子ね。教える前から魔法が使えるなんて」
「でも家を壊されるのは困るから、しばらくは魔力封じがかかせないね」
師匠がいつもの穏やかな調子で会話を続ける。誰もおれのことを気にしない。
あの至近距離からの突然の攻撃を防いだことを褒めてくれるか、せめて怪我をしていないか心配ぐらいして欲しい。
心に虚しい風が吹き抜ける中、赤ん坊が俗に言う天使の微笑みでこちらを見ていた。
それは自由で平和な生活が崩壊した瞬間だった。