否定はしないよ
わたくし、一二一二三は高校の英語教諭です。
職業に関してなにかしらの不満があるわけではありませんが、ひとつだけ述べさせていただきますと、生徒からの人気が少ないことが悩みです。廊下ですれ違ってもあいさつをするだけでそのまま素通り……。
部活動や授業時間外では、とてもさびしい思いをしています。
ちなみに期末テスト1週間前が、もっとも生徒が蝟集してくる時間帯です。
「まずは事故が起きる状況だったかどうかっていうのが肝要だと思うな」
「事故が起きる状況?」
ポカンとする私にも、小流先輩は優しく教えてくれます。
「仮にだよ。康平くんはお風呂の中で眠ってしまったがために亡くなったのだとして、なぜ寝てしまったのか」
「眠かったから寝たとしか思えません。それともだれかに誘発されたと言いたいんですか?」
「わからないわ。でもたとえば康平くんが風邪薬を投与されていたとしたら、それが睡眠薬だとしたら、考えられない話じゃないでしょ」
「康平はたしかに風邪薬を服用していました。しかしそれが睡眠薬だと断ずるのは早計ですよ」
「まあね。で、だれが風邪薬を飲ませたの?」
「誘導尋問さながらですね。沙紀ちゃんですよ。康平のカノジョの石田沙紀ちゃん。これにはなんの不思議もありませんよね。だってカノジョがカレシを心配するのは、自然の摂理ですから」
「否定はしないよ」
小流先輩は目を細くして、唇に妖艶さを漂わせて言いました。
「否定はしないってことは、肯定するってことですか?」
「デカルトじゃあるまいし、二元論的な理屈は通用しないよ」
「ということは、沙紀ちゃんを疑っているんですね」
「否定はしないよ」
意味深長な言葉ばかりです。
なにか核心をつくようなことでも、確信を持つようなことでも、あるのでしょうか。
「では事故だとしたら、他殺説も思慮しろということですね」
「否定はしないよ」
「世の中は左様しからばごもっともそうでござるかしかと存ぜぬ、知ってますよね?」
「狂歌、かな?」
「そうですね」
私はうなずいて、
「この文句に肯定文が多いことでも分かる通り日本人は元来イエスマンの傾向が強いのですが、それにしてはなかなか煮え切りませんよね。小流先輩」
「武士とちがって、単純じゃないのよ。平成は」
「ご名答ですね」
はははと笑いながら、私は水を飲み干しました。
小流先輩は値踏みするように、相好を変えず、私を観察しておりました。
「それじゃあここからが本題だよ」
私が作り笑いをやめたところで、小流先輩は語り始めました。
「まず最初に遺体を発見したのは、私だよね。でさ、私が警察と救急車を呼んでと頼んだとき、きみたちはすでにショックで再起不能になっていた。――ここまでは大丈夫だよね?」
「はい」
「これはまだ警察に言ってなかったんだけど、じつは遺体を発見した当初、あることに気がついたんだ。なんだと思う?」
小流先輩の唐突な質問に対し、「知りません」
私はそっけなく応じました。
「臭い、だよ」
「理解しかねますが……」
「プールの消毒液の臭い、塩素かな」
「それはお風呂を洗ってもらったんですから、洗浄剤のにおいでしょう」
「たとえそうだとしてもだよ、掃除中に換気していたはずだし、臭いが残るということはないんじゃない?」
「それでも多少はやっぱり……」
「お風呂掃除をしたのは、石田沙紀ちゃんだよね」
「そうですが?」
「トイレ掃除も彼女となると、いよいよ怪しいわね。あらかじめ塩素ガスを充満させることもできるからね。どうすればいいか、わかるかしら?」
私は康平が図書館を出たところで言っていた、含蓄のある話題を思い出していました。
「お風呂用洗剤とトイレ用洗剤を混ぜるのでしょう?」
「その通り」
理解が早いと、小流先輩はほめてくれました。
「で、それを実行したのが、石田沙紀ちゃんですか?」
私は眉をひそめて訊きました。
「肯定するよ」
否定はしないよ、じゃないんだ。
――それとも、ニュアンスを変えただけかな。
小流先輩はよく分からない人なんです。
「でもそれは、牽強付会でしかありませんよ」
不愉快です、と私は気で鼻をくくったような態度をとりました。
「沙紀ちゃんだったら、時間的にも都合がつけやすいはずだけど?」
「そうですけど……」
「異論がないんだったら、善良な一市民として警察に連絡するけど、いい?」
「好きにしてください」
私はキリリと睨みつけて、
「そんなこじつけじゃあ、沙紀ちゃんが犯人だっていう証拠もそろわないでしょうから」
「そうだね。そうなることを切に願っているよ」
小流先輩は立ち上がり、「おじゃましました」と帰っていきました。
これから本編で解説しますが、もしもトリックなどで不明なところやわからないところがありましたら、遠慮なくおっしゃってください。それはわたくしの、不徳の致すところなので委曲を尽くして言葉を尽くして説明させていただきます。
感想も「プロローグ読んだよ」とか「今週のジャンプ読んだ?」とか、なんでもいいです。この物語と関係がなくても構いません。
袖触れ合うも他生の縁ですので、皆様との出会いを大切にしていきたいです。