吉岡悠莉VS小流杏子、決着……
だれもが悪人になるという視点では、吉田修一さんの『悪人』に似ています。
小流先輩は、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』のようだと言っていましたが……視点を変えればそうみえるかもしれませんね。
「そうですね。私はあなたを許さないし、通報させてもらいますけどね」
「飴と鞭ならぬ無知と鞭だね、残念だけど、悠莉ちゃん。いまの話をそっくりそのまま警察に話しても、 事実無根だから聞いてはくれないよ? それにもし聞いてくれたとしても、自殺という処理になるんじゃない? だって塩素ガスを発生させたのは、高島康平くんなんだしね。――ああ、でも沙紀ちゃんにも容疑がかかるんじゃないかな。物理的には彼女にだって犯行は可能だし……」
「ざっけんな――」
無意識でコーヒーカップをつかみ、無意識で小流先輩にぶつけました。
カップは小流先輩の頭部で破損し、周辺に欠片が散乱しました。
突然の急展開に小流先輩は狼狽し、流血もしていましたが、時すでに遅し。
――逃げようとする小流先輩の胸には、果物ナイフの刃がめり込んでいたのです。ナイフからはリンゴの果汁と鮮血が混じるようにして、したたっていました。
「ラスプーチンじゃあるまいし、刺殺で十分ですよね?」
要人暗殺ならぬ、用心暗殺。
念のために肉切り包丁で、のど元を掻っ捌こうと思いましたが、感触が気持ち悪そうなので中断しました。
その代わり――のど元に向けて、肉切り包丁を投擲しました。
それはまるで、メンコを叩きつけるような勢いでした。
ザグッ……。鈍く、肉を切り裂く音。ボギッ……。低く、骨を粉砕する音。
赤く、血で絨毯が赤く染まっていきます。
ああ、なんて綺麗な色だ――
それは、恍惚としてしまうほど、興奮してしまうほど、刺激的な光景でした。
私は箍が外れてしまい、わけもわからず、愉快な気分になってきました。
「わーいわーい」
報復を成し遂げた私は、水遊びをして遊ぶ園児さながらに、血液を撒き散らしながら、狂喜乱舞していました。
読者の皆様からしてみれば、私は狂気で、
私からしてみれば、私は狂喜です。
「そういえば、小流先輩は、こんなことを言ってたなあ……」
しばらくして――脳が正常に機能を始めたころ、
私はひとりごとを述べました。
「アメリカの社会学者、ハーシの唱えた社会的絆理論が好きだって……。たしかこの理論は……」
お風呂場に、お風呂用洗剤とトイレ用洗剤をばらまいて、私は塩素ガスを発生させました。
ドアや窓、換気扇から空気が漏れないようにして、私は入浴をしました。
追いだきにしていなかったので冷たい水でしたが、骨身にしみるようでした。
「この理論は、家族、学校、友人といった社会的集団と結びついている場合、犯罪行動を取りにくいという学説だったかな……」
なぜか頭が冴えています。――走馬灯でしょうか。
ソーシャルボンド理論(=社会的絆理論)。
もしかすると小流先輩は、他人との距離感が分からなかっただけで、本当は私たちと、仲良くなりたかっただけなのかもしれませんでした。
だとしたら、私はなんて罪深いことをしたのでしょうか……
『過つは人、許すは神』
アレキサンダーポープの、批評論の一節です。
これも小流先輩が好きな言葉でした。
頭に浮かぶ日常の些事は、ほとんど小流先輩が中心です。
「やっぱり私、小流先輩のことも大好きだったんだ……」
それなら良かったです……。康平と天国に行くことはできないのでしょうが、小流先輩とともに、地獄めぐりができるのですから。
ツンとする塩素の臭い――プールの消毒液の臭いが、浴室に充満してきました。
いよいよ現身と現世にお別れを告げるときがきたようです。
どうか私が死ぬことで、
家族には迷惑が及びませんように………………。
冷水で身を清めて、祈祷をさせていただきます。
「…………っ――ッ……」
息が――
苦しい。です。
これが……死。ですか。
たすけて。ください。
死にそうです。
力が。抜けて。しまいます。
水没――
しちゃう……しちゃい。ます。
やだ……
しにたく。ない。たく、ない、よおおおおお。
たす。けて。けて、よおおおおお。
以下のような文面がつづられた遺書を発見したのは……
吉岡悠莉の親友、石田沙紀だった。
――その手紙は、吉岡悠莉の自宅……
小流杏子の残骸が転がっているリビングにあった。
――正確にいえば、座卓の上である。
だから悠莉が行った、自殺の方法は分かるが、どのように死んだのかは定かでない。
無様に死んだのか、潔く死んだのか、分からない。
遺書に書いてある死に方は、飽くまでも想像の産物でしかないからだ。
そして、警察は一度、高島康平の死因に疑いの念をもった。
彼はたしかに臭いでは異常を感じ取れなかったかもしれないが、頭痛やめまいの症状があったはずではないかという意見である。
この理由はやはり風邪気味だったから、で解決した。
石田沙紀も事件に関与しているのでは、という警察の捜査もすぐに終了した。
事件は和平的な筋道を辿り、平和的に解決したのであった。
多くの屍を踏み台にして……
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
嘘偽りなく、皆様からの訪問があったおかげで、無事に擱筆することができました。
またお会いすることがあれば、ぜひとも御慈愛のほどよろしくお願い申し上げます。




