ゾンビ回収婦はもう片づけない 〜三十数年良い子でいた公爵夫人は、散らかった後始末をすべて元夫に返却いたします〜
銀のティーポットについた指紋を、ネルの布で拭き取る。
呼吸を止め、体重の微かな偏りを利用して擦る。曇りが消え、歪んだ銀面に、ひどく痩せこけた女の顔が浮かび上がっては消えた。
三十数年。数え直すまでもなく、その歳月はわたしの肋骨の裏側に、冷えた油のようにこびりついている。
「ねえ、エレノア。聞いてるの?」
声は暖炉のそばから降ってきた。
ベルベットの肘掛け椅子に身を沈めた夫、ジュリアン公爵である。暖炉の炎が彼の艶やかな金髪を赤く舐めていた。その隣には、蜜色の巻き毛を揺らし、仔猫のように膝を抱えた男爵令嬢のマリアがいる。彼女の薄いモスリンのドレスからは、甘ったるいバニラと果実の香油が匂い立っていた。わたしが朝の四時から帳簿と格闘し、温室のボイラーを修理させ、庭師を宥めていたあいだ、彼女はずっとその香りを調合していたらしい。
「ええ、聞いておりますわ、旦那様」
「なら、その手を止めろよ。君のそういう、小間使いじみた手際の良さが鬱陶しいんだ。公爵夫人としての威厳がまるでない」
ジュリアンは苛立たしげに足を組み替えた。テーブルの上のクリスタルグラスが小さく触れ合い、硬い音を立てる。
彼は、自分が昨日やらかしたことなど、露ほども気にしていないのだ。近衛騎士団の賭け試合で散財した五千金貨の補填も、隣領の伯爵を酒席で愚弄したことの後始末も、すべて今朝までにわたしが頭を下げて片づけた。礼状を書き、金貨を工面し、相手のプライドを傷つけぬよう極上の葡萄酒を贈った。
三十数年良い子で大人になったわたしは、これまでと変わらずに、賢明にひたむきに役割をこなしていく。感謝されず、褒められもしない。それこそまるで『ゾンビ回収婦』みたいに?
街の裏通りで、感染し腐乱した死体を黙々と荷車に積み上げ、誰にも見咎められぬうちに焼却炉へと運ぶ、あの陰気な防護服の女たち。死体が転がっていることには悲鳴を上げても、それを運び去る者の名前など誰も知らない。匂いが消えれば、最初から清潔な街路であったかのように人々は紅茶を啜る。
わたしは公爵邸のゴミ箱であり、汚泥を啜る下水溝だった。
「エレノア様ぁ、そんなに睨まないでくださいまし」
マリアが上目遣いに、わざとらしい震え声を漏らした。
「わたし、ただジュリアン様のお心を慰めたいだけで……。奥様があまりに冷たくて、完璧すぎるから、ジュリアン様は息が詰まってしまわれるのですわ」
「聞いたかい、エレノア。マリアの言う通りだ」
ジュリアンが待ってましたとばかりに胸を反らす。暖炉の灰がパチリと爆ぜ、絨毯の端に飛んだ。わたしは反射的に火挟みへ手を伸ばしかけ、思いとどまる。
「君には血が通っていない。愛嬌もなければ、男を立てる可愛げもない。公爵家に必要なのは、能面のような事務員ではなく、咲き誇る薔薇なのだよ」
「……薔薇、でございますか」
「そうだ。だから、もう終わりにしよう」
ジュリアンはテーブルの上に、一枚の羊皮紙を無造作に投げ出した。そこには、すでに彼の華美な署名が躍っている。
「離縁状だ。持参金は返還する。君の父の爵位も落ち目だ、文句はあるまい。この屋敷の『後片づけ』は、これからはマリアが引き継ぐ。君は塔の離宮にでも引き籠もって、静かに刺繍でもしているといい」
マリアが勝ち誇ったように唇の端を吊り上げ、ジュリアンの腕にすがりついた。
「ジュリアン様、ありがとうございます! わたし、立派な公爵夫人になってみせますわ。お茶会の手配も、舞踏会のドレス選びも、全部ぜんぶ、わたしが華やかに仕切ります!」
わたしは羊皮紙を見つめた。
インクの匂い。羊の皮特有の、わずかに生臭い脂の匂い。
胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。怒りでも、悲しみでもない。極度に張り詰めていた鋼のワイヤーが、経年劣化によってプツンと切れたような、あまりにも軽やかな静寂だった。
「……承知いたしました」
「え?」
ジュリアンが拍子抜けしたように目を丸くする。もっと縋り付くか、あるいは氷のような皮肉を浴びせられるとでも思っていたのだろう。
「持参金の返還、および離婚の手続き、速やかに受諾いたします。離宮には参りません。実家へ戻り、修道院の帳簿管理の職をいただく手はずを整えますので」
「あ、ああ……そうか。物分かりが良くて助かるよ。君のそういう、執着のなさも気味が悪かったんだがね」
ジュリアンはばつが悪そうに鼻を鳴らした。
「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか、旦那様」
「なんだ? 未練でもあるのか?」
「いいえ。明日からの、王都銀行への利払いと、地下貯蔵庫の魔晶石の交換、それから今週末に控えた宰相閣下の観劇会の根回しは、どちらがなさるのですか?」
マリアがふふんと鼻で笑った。
「まあ、エレノア様ったら。そんな使用人の仕事、執事にやらせればよろしいではありませんか! 公爵夫人の仕事は、もっと優雅な社交ですのよ?」
「……左様でございますか」
わたしは深く、完璧な角度で一礼した。
「では、マリア様。どうか、この素晴らしい屋敷を、存分にお楽しみ遊ばせ」
部屋を出る瞬間、背後で「やっとあの陰気な女がいなくなった!」と歓声を上げ、抱き合う二人の衣擦れの音が聞こえた。
わたしは自室に戻り、トランクを一つだけ開けた。私財と呼べるものは、嫁入りの際に持ってきた古びた万年筆と、母の形見の銀の指輪だけだった。着替えを三着。それだけを詰め、わたしはその日の夕暮れ、音もなく公爵邸の裏門をくぐった。
秋の風が、驚くほど冷たく、そして甘かった。
*
三週間が過ぎた。
王都の外れ、静まり返った聖アルテミス修道院の一室で、わたしは羊皮紙に数字を書き込んでいた。
ここは貧しい孤児たちを保護する施設でもある。帳簿の数字はどれも小さく、爪に火を灯すような細部ばかりだったが、ここには嘘がなかった。パンを買えばパンが届き、薪を割れば部屋が暖まる。わたしの差し出したペンの一筋が、誰かの血肉になる実感があった。
「エレノア様、よろしいですか」
老修道女が、困惑と恐れが入り混じった顔で扉を開けた。
「……公爵様が。いえ、ジュリアン様が、門前で大声を上げておられます」
羽ペンの先から、ぽたりと黒いインクが落ちた。
わたしは小さく息を吐き、立ち上がった。
修道院の石造りの門前には、目を疑うような光景が広がっていた。
泥にまみれた豪奢な馬車。痩せ細り、毛並みの荒れた二頭の白馬。そして、仕立ての良いはずのフロックコートのボタンを掛け違え、目の下に濃い隈を作ったジュリアンが、鉄格子を狂ったように揺すっていた。
「エレノア! エレノア、いるんだろう! 顔を出せ!」
「ここに降りますよ、ジュリアン様」
わたしが静かに歩み寄ると、ジュリアンは鉄格子に額を押し付けるようにしてわたしを見つめた。その瞳は血走り、顎には無様な無精髭が生えている。かつての華麗な貴公子のかけらもなかった。
「エレノア……! ああ、エレノア! 帰ってきてくれ、頼む! 君がいないと、何もかも滅茶苦茶なんだ!」
「滅茶苦茶、とは?」
わたしは格子越しに、静かに問いかけた。
「金だ! 王都銀行の奴らが、突然融資を引き揚げると言い出した! 君が裏で回していた特例の担保設定が切れたとかで、明日までに二万金貨を用意しろと……! それに、地下の魔晶石が爆発して、温室と東棟が吹き飛んだ! 定期メンテナンスの契約を、マリアのやつが『無駄な出費』だと勝手に打ち切っていたんだ!」
ジュリアンは髪を掻き毟りながら、喉から泡を飛ばすように叫んだ。
「宰相閣下も激怒している! 観劇会の席順が、政敵の公爵家と同じ並びにされていたんだ! マリアが『華やかだから』と勝手に席をシャッフルしやがった! 我が家は今、社交界の笑い者だ! 不敬罪で爵位を剥奪されるかもしれないんだぞ!」
「マリア様は、どうなさったのですか?」
「あの女は!」
ジュリアンの顔が激しい憎悪に歪んだ。
「金庫の鍵を開け、残っていた宝石をありったけ持って逃げたよ! 実家の男爵家も夜逃げ同然だ! あいつは何も知らなかったんだ! 華やかなドレスの着方と、甘えた声の出し方以外、何一つ! 請求書の束を見て泣き喚くだけで、最後には俺を罵って消えた!」
冷たい風が、二人のあいだを吹き抜ける。
ジュリアンは鉄格子から手を伸ばし、わたしの黒い修道服の袖を掴もうとした。わたしは一歩、自然に後ろへ引いた。彼の指は虚空を掻くだけだった。
「エレノア、悪かった……! 俺が馬鹿だった! 君がどれほど完璧に、あの屋敷を支えてくれていたか、失って初めて骨身に沁みたんだ! 君の言う通りだった、君は俺たちの命綱だったんだ! 頼む、戻ってきてくれ! もう一度、公爵夫人として俺の隣に立って、あの屋敷を……あのゴミ溜めを、元通りに片づけてくれ!」
ジュリアンは泥の地面に両膝をついた。誇り高き公爵が、修道院の門前で、額を地面に擦り付けて懇願している。通行人たちが遠巻きに足を止め、嘲笑混じりの視線を投げかけていた。
わたしは、彼を見下ろした。
胸の奥を探ってみても、かつて彼に抱いていたかすかな情愛も、あるいは彼を破滅させてやったという復讐の快感すら、湧き上がってこなかった。ただ、乾いた風が吹き抜ける平原のように、どこまでも平坦だった。
「ジュリアン様」
「あ、ああ……! 許してくれるのかい、エレノア!」
顔を上げたジュリアンの瞳に、醜い希望が宿る。
「わたしはもう、『ゾンビ回収婦』をやめたのです」
「……え?」
「貴方がたが散らかした汚物や、目を背けたがった負債、腐り落ちた人間関係の残骸。それらを黙って拾い集め、誰にも気づかれないように消毒して燃やす役目は、もう降ろさせていただきました」
「何を……何を言っているんだ? 俺は夫だぞ!? 君をもう一度、公爵夫人にしてやると言っているんだ!」
「わたくしは三十数年、良い子で大人になりました。賢明に、ひたむきに、誰からも褒められず、感謝もされない役割を、それが義務だと信じてこなしてまいりました」
わたしは胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。肺腑に満ちる空気は冷たく、どこまでも澄んでいた。
「けれど、もうやめましたの。わたくしは今、朝起きて、自分のために祈り、自分の手でパンを焼き、必要としてくれる子どもたちのためにペンを執っております。誰かの散らかしたゴミを片づけるためだけに、神からいただいた命を使うつもりはございません」
「エレノア! 待て、行くな! 俺を見捨てるのか! 公爵家が潰れるんだぞ!」
「ご自分で散らかされたものですわ」
わたしは穏やかに微笑んだ。おそらく、結婚生活の中で一度も見せたことのない、心からの柔らかな笑みだった。
「どうかご自身の手で、最後の一つまで、綺麗にお片づけあそばせ」
わたしは背を向けた。
背後で、鉄格子を狂ったように叩く音と、ジュリアンの絶叫が響き渡った。かつて愛した男の、情けない泣き声と呪詛。
それらは修道院の厚い木扉を閉ざした瞬間、完全に遮断された。
廊下の先から、孤児たちの走る足音が聞こえてくる。
「エレノア先生! 算術のノート、全部できたよ!」
「先生、中庭の薔薇がね、一輪だけ咲いたの!」
「ええ、今行きます」
わたしは袖をまくり、ペンを握り直した。
秋の柔らかな光が窓から差し込み、白紙の帳簿を、どこまでも明るく照らしていた。




