終わりの始まり
2025年、8月
一人の若き女優が死んだ。享年21歳、彼女は夜空にひらめく蝶の様に空を舞った。
朝からワイドショーはその女優の話題で持ち切りだ。
「美空さんは若いながらも数多くの作品に出演し、まさに順風満帆、そう見えたんですがね。何が彼女をそこまで追い詰めていたんでしょうか」
神妙な顔をしたコメンテーターの言葉がテレビから聞こえ、男はハッと鼻で笑った。風呂上りの髪はまだ雫が落ち、男の肩を濡らしている。頭から引っ被ったタオルで乱暴に髪を拭き、男はテレビの電源を落とした。
― 美空 葵 ―
女優として華々しく活躍していた彼女を、誰よりも近くで見て来た。詰め込まれたスケジュールだけで語るなら、確かに引っ張りだこの彼女は順風満帆に見えたのかもしれない。人が自分の見たい部分しか見ようとしないように、ワイドショーに並ぶ物知り顔のコメンテーターも、彼女の苦悩、痛めた心、零した涙、そして死を選ぶほどの絶望も、所詮は他人事なのだ。
仕事に行く気にはなれないが、大切な人が亡くなっても日常は続く。男は大きな溜息と共にシャツに手を伸ばした。
― ♪ ♬ ♩ ―
シャツを纏った所でローテーブルに置かれた携帯が鳴り、男はボタンも締めないまま携帯を手に取る。着信相手は最近とんと連絡を疎かにしていた母親からだった。
「はいはい?」
『あ、大介。お母さんだけど』
「うん」
『あんた・・葵ちゃんの葬儀、出るの?』
きっとワイドショーに仰天して電話を掛けて来たんだろう母親は、心配そうな声で尋ねる。
「事務所が仕切ってる葬儀なんて出たって意味ないよ。奴ら、葵が亡くなった事も食い物にしてんだから恐れ入るよ。・・もうちょっと落ち着いたらさ、葵の実家に顔出すつもり」
『そうね、その方が葵ちゃんも喜ぶわよね』
「うん」
あからさまにホッとしている母親の声を、大介はメディアからの注目を避けたい親心として捉えた。が、
「じゃ、仕事遅れるから切るよ?」
これ以上話していると自分を気遣って泣いてしまいそうな母を慰めるだけの気力はなく、大介は行きたくもない仕事を口実に早めに通話を切り上げた。通話を切った画面にはアプリが所狭しと並び、大介はその中のSNS最大手、グーリーのアイコンをジッと見つめた。グーリーは誰でも手軽に利用出来る便利さから人気を博している投稿サイトだ。
“ 葵の事はどんな風に書かれているんだろう ”
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、大介はブルリと体を震わせると携帯をソファへ投げ捨てた。
「はー、ショックだわー・・俺の葵ちゃんがー」
職場に行っても話題は一色。やっぱり来なければ良かったと思いながら席へ座る。パソコンを立ち上げる手が一瞬止まったが、大介は一呼吸置くと電源を入れ、起動するパソコンの画面を眺めた。
これから自分は引き返せない道を進む、だがその決意は覚悟へと変わり、自分が葵の為にしてやれる弔いでもある。
“ さぁ、開演だ ”
@news24_jp
【速報】女優・美空葵さん(21) 自宅マンションから飛び降り。行き過ぎた誹謗中傷が原因か。
所属事務所「一言相談して欲しかった、残念でなりません」
#美空葵 #ニュース速報
@hito_no_koto
「ネットのせい」って騒いでるけどさ、芸能人やるなら批判されるのも仕事のうちじゃん。
#自己責任 #美空葵
@bitter_truth
この人、実の弟とデキてたって炎上した人だよね?。
近親相姦の犯罪者でも良心の呵責に耐えられなかったのかね。
#美空葵
@aifan_777
アンチは黙れよ…
あんたらの言葉で葵ちゃんがどれだけ苦しんでたか、わかってんの?
#美空葵を返して
@blue_heart
ニュース見て震えてる。
ごめん、言葉が出てこない。
#美空葵
@tokyo_hate
死んだら急に「可哀想」扱いするのダサくない?
生きてるときに擁護してやれよ。
#美空葵
@aifan_777
↑こういう奴がいるから葵ちゃんは死んだんだよ。
お前らが追い込んだんだよ。
#美空葵
@darktruth
アンチのせいにするなよw
SNSなんか見るからだろ。
#美空葵 #ネットの闇
グーリーの中では耐え難い言葉の羅列が並ぶ。そんな投稿を諫める者、共感する者、まるでゴミ捨て場の様に毎日言葉が吐き出され、匿名という悪意は集団心理を持って大きく育ち人の心を失くしていく、それが現代社会だ。人々の悪意を運ぶのはグーリーだけではない。動画再生の大手サイトは競うように乱立し、そこでも衝撃的な見出しで美空葵の訃報が飛び交っている。女優一人が亡くなった所で世の仕組みが変わる訳ではないし、人の悪意も留まる事はない。それが自分達の人生を変えてしまう事もあると、人は想像も出来ないのだ。
@kuroinu_0215
は?美空葵マジで消えて欲しいつってたら、マジ消えたわw
弟とヤっちゃうようなモラルのない女キモ。ファンも信者ばっかで頭おかしいだろ。
#美空葵
⚠️【ユーザー認証済み】
投稿者:田島健介(東京都杉並区)
切っ掛けは一件の投稿から始まった。
@hana_pink
え、実名出てんじゃん?これバグ?
#美空葵 #死んでも炎上
@popo_love
田島健介って誰?ww
晒されてて草
@blueeye33
これヤバくない?
個人情報保護法どうなってんの??
#拡散希望
田島の実名が晒された瞬間、彼のアカウントには数千件を超えるリプライが殺到。DMの通知も鳴り止まず、スマホは熱を持ち、田島はパニックになった。
「は?何で俺の名前・・何で住所まで・・!?」
震える指で画面をスクロールするが、止めどなく拡散される自分の実名。“特定班”がSNSに現れ、勤務先や通っているジムまで晒され始めると、田島はこれまで自分がどれだけ危険な世界に居たのかを初めて実感した。。
「しばらく出社しないでくれ」
田島が上司に宣告されたのは、実名が晒されて僅か3日目の事だ。
「俺、犯罪者じゃないですよ!ただ、思った事を書き込んだだけです!」
「その内容が問題なんだろうが!ネットで炎上して社名まで・・総務の電話は鳴りっ放しだ!少しは大人の自覚を持ってくれよ!」
なぜ自分がこんな目に・・。あんなものはただの遊びで、バーチャルの世界だ。リアルでは言えない事でもバーチャルの、自分だけの空間ならば何を言ったっていいじゃないか。嫌なら見なければ良いだけの事だ。
ビルを出ると、街はいつも通り人で溢れていて、田島はその視線の全てが自分に突き刺さっているような気がした。
「・・なんだよ、見んなよ・・」
怖くなって足早に駅へ向かう途中、スマホを見つめる人々がチラチラと自分を盗み見ているのが目にとまり、
「この人じゃない?」
「顔、同じだよね」
「動画の人だよね、炎上してる・・」
そんなヒソヒソと交わされる声が耳に刺さった。胸がざわつき、汗が背中を伝う。田島は怒りを抑えきれず、通りかかった若い女性に声を荒げた。
「何見てんだよ!!」
女性は驚いてスマホを胸元に抱き視線を逸らしたが、田島は咄嗟にそのスマホを奪い取る。画面には動画投稿サイトの再生画面。そこには自分の顔が切り抜かれ、
“ 美空葵アンチ代表・田島健介の過去発言まとめ ”
という煽り文句が大きく表示されていた。
「・・ふざけんなよ、誰が・・誰がこんな・・!」
女性は半泣きで返してくれと訴えていて、田島は震える手でスマホを返すと全速力でその場から逃げ去った。家へ向かう電車の中でも、乗客の視線が気になって仕方ない。電子版にはニュースアプリの速報が右から左へと流れ、葵の名前を見る度に自分の名前も表示されるんじゃないかと怖くなった。
“ 俺は悪くない・・事実を言っただけなのに・・ ”
もう逃げ場はなかった。家に帰れば自宅の周囲は見物人に囲まれていて、中には玄関のドアを叩いている者までいる。世界は一気に狭まり、田島は宛もなく逃げ出す事しか出来なかった。