最後の嘘、本当の愛 ~嘘つき令嬢と寡黙な騎士~
王都の春は、風が薄く甘い。花の匂いが石畳の上で混ざり合い、陽光が金の粉のように舞っていた。
そんな朝に限って、私は平気な顔をする。
「……あなたのことなんて、嫌いですわ」
口に出した瞬間、胸の奥がひりついた。笑っているつもりなのに、頬の筋肉がこわばる。
指先は勝手に耳飾りへ伸びて、銀の滴をそっと弾いた。ころん、と小さな音。癖だ、と自分でわかっている。嘘をつくとき、私は決まって光るものに触れてしまう。
目の前の男は、いつものように少しだけ目を細めた。
大柄な体躯。陽に焼けた肩の幅は、廊下の影と同じくらい広い。黒髪は短く整えられ、剣帯の金具は磨かれている。寡黙で、余計なことは言わない――騎士団長、アラン。
「そうか」
それだけ言って、彼は踵を返した。
足音が遠ざかる。私は呼吸を続けるために、数を数えた。一、二、三――十まで数えてから、壁にもたれかかる。
嫌いですわ、なんて。本当は、嘘。
でも、仕方がないのだ。私は侯爵家の令嬢、エルナ。家の名誉と政略が何よりも重んじられるこの世界で、私個人の想いだけではどうすることもできない事情は山ほどある。そして――何より、彼を私の元に縛り付けてしまうことが、一番怖かった。
そして彼は、近日中に前線へ遠征に出る。任期は決まっているけれど、生きて帰ってこられる保証など、どこにもない。
私が彼を待つなど、あってはならない。そして、彼に私を待つという責任を負わせてしまうのも。
待てるはずがない――そう思い込むことで、私は自分を守っている。
だから、呪いのように繰り返してしまうのだ。嫌いですわ、と。
その夜も、寝台の上で目を閉じたまま朝を迎えた。瞼の裏に浮かぶのは、広い背中と、低い声。
幼いころから、ずっと傍にあったものだ。
昔、庭の茨で手を切ったときも、私は泣きながら「痛くない」と笑った。
アランは黙って膝をつき、ハンカチで血を拭きながらぼそりと呟いた。
『泣くときほど笑う癖、直らないな』
その言葉は、今も胸のどこかであたたかく疼く。
***
遠征の話が城に広まるにつれて、私とアランの間にある会話は短くなっていった。
会えば礼儀を交わし、必要な報告だけ。すれ違いは増え、侍女たちは遠巻きに囁く。「最近はすっかり不仲でいらっしゃる」と。
違う、と心の中で否定する。
否定して、夜に眠れなくなる。
出立三日前の午後、王宮の回廊で彼を見かけた。
例のように磨かれた金具が光っている。目が合った。彼は軽く顎を引き、互いに歩み寄って立ち止まる。
「体調は?」
「万全だ」
それきり、沈黙。
私の指は、衣の裾を探ってしまう。光るものがないから、今度は指先同士を触れ合わせる。
彼の目が、ほんの少しだけ優しくなった気がした。
「……ご武運を」
「任せろ」
別れ際、私はまた口先だけの笑みを作った。アランは何も言わず、その目で「わかった」と告げた。
***
出立前日の夜、城にひそやかな知らせが滑り込んだ。
戦況が急速に好転。現地は収束に向かいつつあり、王の決裁でアランには「視察のみ、即時帰還」の命が下った。
知らせは、本人に直ちに伝えられたという。
私はそれを知らない。
ただ、眠れない夜をもう一つ積み上げ、窓の外の星を数えていた。
***
出立の朝は、やけに澄んでいた。
王城の桟橋は人で賑わい、軍船の帆は早朝の光を吸って白く膨らむ。
私は門前に立ち、胸に手を置いて呼吸を整えた。耳飾りを外すべきか迷い、結局そのままにした。触りたくなるに決まっているのに。
彼が来る。
響いてくるのは、鎧の金属音と、彼の足音。
人垣が自然と割れて、黒髪の大きな背中が現れた。目が合う。私は笑う――笑ってしまう。泣きたいほどに。
「行ってくる」
いつもの低い声。
私は唇を開き、喉が乾いて、声が出なかった。数拍置いて、やっと絞り出す。
「……ご無事で」
それだけ。
彼は頷き、私の横を通り過ぎ――桟橋へ向かう。
背中が、遠ざかっていく。白い帆の下へ。
このまま背を向けたら、きっと一生後悔する。
足が勝手に動いた。裾を踏み、転びそうになりながら、それでも駆ける。風が裾を煽り、耳飾りが鳴った。
気づけば、私は彼のマントの端にしがみついていた。
「ア、アラン様……!」
自分の声ではないみたいに震えている。
彼が振り返る。近い。こんなに大きかったのだ、と今さら思う。
胸が上下して、言葉がこぼれ落ちた。
「――すべて、嘘です。嫌いなんて、一度も……。戻ってこないで、なんて、どうかしてました。どうか、どうか、生きて帰ってください……!」
最後は涙で濁って、言葉にならなかった。
彼の眼差しがわずかに揺れて、私は慌てて顔を伏せる。見られたくない。こんな顔を。
沈黙。
人々のざわめきが、遠くに退いた気がした。
耳のすぐそばで、低く短い息の音がした。アランのものだ。
「――すまない、エルナ」
その声だけで、胸の奥が崩れた。
彼の手が私の肩に触れる。大きくて、あたたかい。
掴んでいたマントの布地が、わずかにしわになる。
「嘘をついたのは、俺のほうだ」
私は顔を上げた。涙で滲む視界の中、黒い瞳がまっすぐこちらを見ている。
「戦は落ち着いた。俺は――視察だけして、すぐに戻れる。危険な任務じゃない。昨日、王命が下りた」
言葉は簡潔で、彼らしかった。
喉の奥が熱くなる。安堵が波のように押し寄せ、すぐに別の感情が追いかけてくる。
「……ひどい、です」
「ああ。ひどい」
苦笑が、彼の唇の端にわずかに浮かぶ。
次の息は少しだけ荒く、言葉は短い。
「すまない。本当に。言えなかった。……おまえに、帰ってから、ちゃんと……言いたかった」
"試した"のではない――と、彼は言わなかった。
けれど、わかった。彼の沈黙は、意地悪ではなく、不器用な配慮の形だったのだと。
臆病さと、真面目さと、私への遠慮が、彼の舌を縛っていたのだと。
私は息を呑んだ。涙の水面に、光が落ちる。耳飾りが指に触れて、冷たい。
それでも笑った。泣くときほど、私は笑うのだ。
「いいのです。……嘘をついたのは、私も同じですから」
彼の目が柔らかくなる。
私は背筋を伸ばし、声を落として、言葉を選ぶ。長く胸の底で温めてきた、短い言葉。
「本当は――お慕いしております、アラン様」
風が帆を叩いた。
彼の腕が、私をすっぽりと抱き込む。壊れ物みたいにそっと、それでいて揺るぎなく。
「私もだ、エルナ。……私も、愛している」
胸の奥で何かがほどけた。
人々のざわめきが戻ってきて、誰かが小さく歓声を上げた。
私は彼の胸に額を押し当てる。鼓動がゆっくりと、確かに刻まれている。
「もう、嘘はいらないな」
彼がそう言った。
私は頷く。涙の味が、少しだけ塩辛い。
「はい」
そのとき、彼がふいに私から半歩離れ、まっすぐに見下ろした。黒い瞳に、覚悟の色が灯る。
「視察なんて、やめだ」
「え?」
「報告書なら今ここで書ける。『王都に最重要の任務がある』と。……エルナ、婚姻の許しを陛下に願い出る。このまま」
胸が跳ねた。
私は思わず目を丸くして、次の瞬間には笑っていた。涙と笑いが混ざる、情けない顔で。
でも、かまうものか。
「ほんとうに、もう……不器用なんですから」
「知っている」
彼は短く言って、私の手を取った。
指先から、心まで、しっかりと繋がる。
白い帆がたわみ、朝の陽が水面に砕ける。春の風が、二人の間を通り抜けていった。
桟橋の端では、副官が天を仰いでいる。兵たちが囁き合い、侍女たちが口元を押さえている。
王に奏上するには、手順がいる。書面も印も、いろいろと必要だ。
それでも、たぶん大丈夫だろう――と、私は思った。
だってこの人は、戦場で幾度も勝利を押し広げてきた騎士団長で、私が幼いころから信じてきたひとだ。
私は耳飾りに触れかけて、やめた。
もう、嘘をつく必要はない。
指先は彼の手を、きゅっと握り直した。
――春は、やっぱり甘い。
陽光の粉のなか、私たちは桟橋を引き返し、王城の門へと並んで歩き出した。
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