ep9 新たなる来訪者
そうして足を踏み入れた六十九階層は、六十八階層に比べて霧の濃い階層であった。
天井からは紫色の蔦が伸びてきており、足元には六十八階層同様紫の花畑。
踏み潰すと汁が溢れるのも同じだ。
しかしその下の地面はぬかるんでおり、足を掴んで離さない。
動きにくいにもほどがある。
俺はゆっくり周囲に視線を巡らせるが、流石に視界が悪すぎて全体を把握することは出来なかった。
『アブソリュート・ゼロ』を使用すれば、モンスターの有無や位置を確認することは出来るが……。
(もう少し動きやすい階層なら探索してもよかったが……この視界不良に足元の泥濘。……魔法使ってまで探索するのは面倒だな)
これで『どうしてもこの先に進みたい!』というのがあれば話は別だが、今は別に攻略を急いでいる訳でもない。
導き出した結論は、撤退。
そんな訳で俺は六十九階層に足を踏み入れて早々に、帰宅を決意。
時間にして五分も滞在していないだろう。
濃い霧の中を「階段はどこだったかなぁ」とぼやきながら歩いていると——不意にぬかるんだ地面を駆け抜ける足音が聞こえてきて、何かが物凄い速度でこちらに接近しているのに気付いた。
「……」
俺は息を殺しながら氷の剣を生成し、音の方角を注視。
足音は一つではなく、二つ、三つ……合計六つ。
軽そうな足音が一つと、その後方から重たい足音が五つ。
(……なんだ?)
と濃い霧を睨み付ける事数秒。
それは起こった。
「――『××××××××』ッ!!」
霧の向こう側から聞いたことも無い言語が耳に届く同時に、暴風が吹き荒れた。
それは風属性上級魔法『ウィンドストーム』に酷似した一撃。
「っ、まさか!」
魔法を操るだけなら精々強力なモンスターと楽観視できるが、明らかに言語らしきを言葉と共に魔法を行使したとなれば、モンスターではなく別の可能性も浮上してくる。
脳裏に浮かぶのは白い着物の吸血姫と、褐色ギザ歯の剣聖竜人族。
つい先日、命がけの戦闘を繰り広げたばかりの相手、異世界人だ。
必然、剣を握る手にも力が入り――生唾を飲み込んだ瞬間。暴風で薄くなった霧の中から『何か』が大きく跳躍して飛び出してきた。空中でくるくると錐揉み回転しながらバランスを取り、着地点を捜していたのは、大きな狐のような獣だった。
(……っ!?)
それがただの獣であれば、俺はモンスターと判断して即座に迎撃していただろう。
しかし空中で心身を翻す獣はその身に衣服を纏い、両手に双剣らしき武器を持っていた。武器を持つモンスターも、簡易な布で服を作るモンスターも存在する。だが、あそこまで精密な衣装は、見たことがない。
すると、向こうも呆けるこちらの存在に気付いたのか、驚きと焦りの滲んだ瞳と目が合い――次の瞬間、獣は空中で姿勢を制御しながら俺の正面に着地。
そのまま二足歩行で立ち上がると、慌てた様子で叫んだ。
「×××!」
「ぁ、え、なに?」
「×××! ××、××××××!!」
聴いたことも無い言語を列挙する獣。
対する俺は、獣の姿を間近で観察する。
頭上でピンと立つ狐の耳に、獣の顔立ちながらも愛嬌と妖艶さを兼ね備えたような雰囲気の容姿。すらりと伸びた手足にはふわふわの体毛が揃い、スレンダーながらも豊満な胸を民族衣装の様な露出度の高い服で押さえつけている。尾てい骨の辺りからは、これまたふわふわのしっぽが生えており、両手には弧を描いた双剣が握られていた。
その姿はまるで、アニメや漫画に登場する獣人のようで――。
(モンスター、じゃないよな? 獣人……吸血姫や竜人族が居るなら……有り得るのか? いやいやそれよりも、もしこいつが異世界人なら――)
敵、という事になる。
遅ればせながらもその事実に気付いた俺に対し、しかし獣人の彼女は相も変わらず意味不明な言語を捲し立てており――やがて辛抱が切れたと言わんばかりに、自分が走って来た方角を指さした。
言われるがままに視線を向けると、そこにはオーガが五体迫っていた。
オーガはAランクに指定されるモンスターだ。
身長は二メートルほどで、引き締まった筋骨隆々の肉体に、特徴的な二本の角。手には金属製の巨大な棍棒が、文字通り鬼の形相でこちらに迫っていた。
(なるほど。さっき聞いた重い足音はオーガの物だったか)
納得するのと同時、先頭を走っていたオーガが大きく跳躍。手にしていた棍棒を大きく振りかぶり、俺たちを叩き潰そうと攻撃してくる。
対する俺は『アイススピア』で軌道を逸らそうとして――。
「×××ッ!」
「うおっ!? っとと」
獣人の彼女が押し倒すように飛びついてきた。
それと同時、彼女のしっぽを掠めるように棍棒が振り下ろされる——直後、俺の準備していたアイススピアが地面から出現。棍棒の側面を撫でるように軌道を逸らし、棍棒は俺たちに当たることなく、ぬかるんだ六十九階層の地面に突き刺さった。
地面が陥没し、紫の花弁が舞う。
その威力は火を見るよりも明らか。
直撃していれば命は無かっただろう。
そして俺がアイススピアを出そうとしていたことを、獣人の彼女は知る由もない訳で……。
「××? ×××!」
それどころか立ち上がり際に、こちらを気遣うような様子も見せて来る。
「……助けて、くれたのか?」
「×××! ×××××!!」
ワタワタと身振り手振りで立ち上がるように促す獣人の彼女。
そこに敵意や害意は感じられず、ただひたすらにこちらを心配し、目の前の脅威に怯える者の目が覗いて見えた。
彼女の手を取って立ち上がると、ようやく彼女は俺の生み出した『アイススピア』に気付いたのか僅かに目を見開く。が、思考を止めることは無く、迫りくるオーガに対して俺を守るように立ち塞がると双剣を眼前でクロスさせながら詠唱を開始。
周囲に小さな風が吹き始める。
おそらくは最初に霧を払った暴風を引き起こそうとしているのだろうが、オーガ相手では時間稼ぎにしかならない。それが目的というのなら十分だが……事ここに至っては、わざわざ時間稼ぎなどする必要はない。
俺は彼女の肩に手を置いて魔法を中断させる。
「×××!? ××××――!!」
「何言ってるのかは分からないけど……助けてくれた礼はします。――『アイススピア』」
彼女を下がらせて前に出た俺は、右手を突き出し魔法を口にする。
刹那、地面から無数のアイススピアが出現。
五匹のオーガに迫る。
『GYAGA!?』
驚いたような声を上げるオーガ。五匹のうち二匹は奇襲に気付かずに串刺しに。残る三体は恐ろしい反応速度で回避して、後方へと大きくジャンプ。その着地点目掛けてアイススピアを伸ばすが、ある者は回避、ある者は手にした棍棒で粉砕した。
「……ふむ。それなら――」
俺は即座にオーガの顔面付近に『フレア・バースト』を発動。
一匹は顔面が吹き飛ぶが、残る二匹は頬を軽く焼いた程度。
恐るべき反射神経である。
慌てて距離を取ろうとするオーガたちに、しかし俺は手を緩めない。
アイススピアとフレア・バーストで残る二体の体力も削っていき——やがて、このままではジリ貧になると判断したのか、大きく戦慄きながら二体揃って突貫してきた。
『『GURRRRR!! GUGAAAAAAAAAAAAA――ッ!!』』
迫りくる鬼の拳。
背後で獣人の彼女が一瞬身を強張らせる気配を見せるが、俺は気にせず身体強化を施して右手に氷の剣を生成すると、迫りくる二体のオーガの首筋に切っ先を合わせて——スパッと横に一閃。
微かな静寂の後、オーガの首が落ちて、骸はダンジョンに飲まれて消えていった。
「ん~、想像より苦戦したな」
初手のアイススピアでめった刺しにして終わりかと思ったが、まさかここまで回避されるとは。最近は強くなったと多少驕ってはいたけど、油断は禁物である。
(まぁ、それでも負ける気はしないが)
小さく息を吐いてから思い出したように背後を振り返と、そこには尻餅を着いて目を見開き、俺を見上げる獣人の姿。
彼女が異世界人であることは間違いないだろう。
侵略者なのか、何故ここに居るのか等、聞きたいことは山ほどある。
が、ひとまず敵意らしきものは感じられない。
「あの、大丈夫ですか?」
そんな訳で、今度はこちらが気遣う番だと手を差し伸べてみた。
彼女はこれを受けてピクリと肩を動かすが、敵対的な行動は見せない。
やがて、おずおずと俺の手を取って立ち上がろうとして――瞬間、彼女の身体から力が抜けた。
俺は頭が地面にぶつかる直前に慌てて、キャッチ。右手に持っていた氷の剣を投げ捨てると、彼女の身体を抱えながら状態を確認する。
俺に医学知識はないので詳しいことは分からないが、気を失っているだけの様に見えた。
緊張の糸が切れたのか、それとも他の要因か。
おそらくは前者だろうが、念の為に外傷が無いかを確かめる。
頭……獣の体毛とは別に髪の毛が生えている。両者ともふわふわ。外傷無し。
身体……露出度の高い民族衣装が所々破れているが、それだけ。とてもふわふわ。外傷無し。
手足……とてもふわふわ。外傷無し。
しっぽ……とてもふわふわ。ふわふわふわふわ。
「よかった、ふわふわだ。……じゃなかった。怪我はないみたいだな」
いけない。相手は見た所女性。
明らか異世界人であり、そもそも人間ではないだろうが、それでも女性。
セクハラで訴えられる可能性も無きにしも非ずだ。
世界にはケモナーと言って、獣人のようなケモノに興奮する変態もいるそうだし、裁判に持ち込まれたら負ける可能性も高い。俺は決してケモナーではないが、それでもいらぬリスクは取るべきではない。
(……何を考えてるんだ俺は)
頭を振って思考を切り替えると、再度獣人の彼女――ケモノさんに視線を向ける。
「というか、マジで着ぐるみとかじゃないんだよな……。兎に角、連れて帰るしかない……か」
色々と疑問はあるが、ひとまず同所を後にしよう。
仮にその後敵対されたとしても……まぁ、オーガから逃げる程度の手合いなら問題はない。
俺は小さく息を吐いてから彼女を背負い、六十八階層へと歩き始めるのだった。