1 土下座
数時間前に出会ったばかりの神様らしき人物が、今、俺の目の前で尻を高く突き出しながら土下座している。
「ごめんなさーいっ! のじゃ」
俺は、どう反応すればいいんだろう。怒ればいいのか?
この状況の理由を話すには、少しだけ時間を巻き戻す必要がある。
***
——ここが異世界?
校庭ほどの広さの草原に、周囲は背の高い木々。
どこなのかは不明だが、ここが森の中だというのは間違いない。
「それより、姉さ——」
「——にゃーん」
声をかけかけたところに、杏姉さんが全力で前足を振りながら、俺に向かって飛びかかってきた。
元気になったんだな……よかった。
顔にふわりと柔らかい肉球が触れたかと思うと、次の瞬間、視界がぐるぐると回り、浮遊感が襲う。
え、今の猫パンチ?
「ギャフン!」
下が草で助かったけど、ほっぺが地味に痛い。
姉さん、異世界に来て猫パンチの威力までバフがかかったんですか?
「にゃーん」
「なんで殴られたかって? いや、わかんないです。ていうか、なんで俺、姉さんの言葉がわかるんですか?」
「にゃーん」
——正座しろ、だそうです。
言われた通りに正座をすると、姉さんの説教が始まる。
契約内容をろくに読まずにサインするなんて、もう子供じゃないんだからとか、いい年して姉離れできないのかとか、いつになったら番のひとりでも連れてくるのかとか、どんどん話が逸れていく。
彼女がこれまでに一人もいないのは今、関係ないよね?
姉さんの尻尾がいつの間にか4本に増えている。異世界効果? なんにせよ、モフりたい。
「にゃーん」
「ぐふぅ!」
「聞いてるのか!」というタイミングで再び猫パンチ。
肉球が素晴らしい。
「にゃーん」
「命は有限だからこそ、意味がある」
でも——私のためにしてくれたことには、ちゃんと礼を言う。ありがとう。
ツンデレの姉さんらしい言葉に、ちょっと泣きそうになる。
あ、もう、モフっていいですか?
「にゃーん」
姉さんは、尻尾で何処かを指差す。
あの草原の端の、小屋のような建物を指しているみたいだ。
「あそこに助けるべき者がいると?」
「にゃーん」
モフるために伸ばした手をよけて、姉さんが俺の肩に飛び乗る。
そのまま尻尾で再度、小屋の方角を示す。
助ける者ねって、あの契約書にそんなこと書いてあったっけ?
「にゃーん」
“だから契約はちゃんと読めって言ったでしょ”とでも言いたげに、姉さんの爪がじわりと頬に当たる。
小屋の中は、外観とは違って案外きれいだった。
畳の八畳間、狭い水回りに洗濯機と小さな冷蔵庫。ちゃぶ台と座布団、布団が敷きっぱなし。
扉を開けてみると、ユニットバスとトイレが別なのは好感が持てる。
異世界なのに、なんか現実感あるな……。
「でも、助けるべき人ってどこに?」
姉さんが俺の肩から飛び降り、布団の上に乗ると、テシテシと何かを叩き始める。
——白い布団、じゃない。
敷布団の上に、秋田犬みたいな大きな白い犬が、横たわっていた。
心臓に手を当てると、わずかに鼓動はある。けど、弱い。声をかけても反応もない。
生きてはいるけど、時間がない——そんな感じがする。
「この子を、助ければいいんですね」
「にゃーん」
けれど、姉さんの話によると——この子を癒せば、俺の癒しの力は100年使えなくなるという。
え、実質能力没収なんですけど。
「にゃーん」
「ちゃんと読まなかったお前が悪い」と、姉さん。
呆れつつも姉さんは、俺の代わりにこれからの交渉方法を考えてくれているようだった。
けれど、そんなことを考えている間にも、白い犬の命は少しずつ削られていく。
「姉さん。迷ってる暇はなさそうです」
「にゃーん」
「これからのことは考えてるのか?」と問う姉さんに、俺は首を振る。
「まったく何もってわけじゃないけど……でも、俺が死ぬわけじゃないんですよね? だったら、助けられる命は、助けたいんです」
姉さんは小さくため息をついて、俺の隣に来て、布団の横にちょこんと座る。
——好きにしなさいという無言の同意。
自然と体が動いていた。犬の柔らかい毛並みに両手を当て、目を閉じる。
体の奥から、何かが流れ出す感覚。
しばらくして、犬の心音がはっきりと聞こえてきた。
あ、目が開いた。
のそっと立ち上がると、ブルブルと体をふるい、「わん」と俺に向かって吠えた。
「ありがとう、って言ってくれてるのかな?」
「わん!」
手をペロペロと舐めてくる白い犬に、俺は思わず笑ってしまった。
体をわしゃわしゃ撫でて、そのまま抱きしめる。
「これは、よきモフモフなのじゃ!」
「にゃーん」「わん」
姉さんと犬がなにやら話している。うん、仲良くやれてるみたいだ。
「そういえば、君の名前は?」
「わん」
「にゃーん」
姉さんが通訳してくれる。名前は「大福」。
……うん、あるあるだ。見た目からのネーミング。ペットあるある。
ちなみに姉さんの名前「杏」は、拾われたとき咥えてたからだそうで。黒猫っぽさゼロ。
——そのとき、外に光の柱が立った。
あれ、もしかして神様が降臨してきた?
外に出ると、降り立っていたのは身長の低い金髪ショートの少女と、黒髪ポニーテールのクール系お姉様。
金髪の子は、なぜかお尻を押さえて涙目でプルプル震えてる。
何があったし。
俺達に気づくと、金髪少女は腰に手を当ててふんぞり返った。
「我こそが主神・サイゼなのじゃ!」
「サイゼ様……」
黒髪の美女が冷ややかな視線を送ると、サイゼ様はすぐに正座——しようとしたが、尻が痛いらしくて中腰のまま止まる。
あの目で俺も睨まれたいな、クールビューティーさん。
あれ? 皆から呆れたような視線を浴びてる気がする。
これ、俺も正座したほうがいい?
何となくそんな空気になって、俺も並んで正座。
——そして冒頭へと戻るのだった。