すずらん通りの風が変わる日
すずらんって、見た目は小さくて可愛いけど、ほんとはちょっとした毒を持ってるんだ。
でもね、香りはすごく優しくて、昔から“幸福を呼ぶ花”って言われてる。
……だからかもね。“近づくには少し勇気がいる幸せ”って、すずらんみたいな気がする
朝の空気はやわらかく澄んでいて、花逢の温室には静かな気配が漂っていた。
月森千華は、棚に並んだ鉢に霧を吹きかけていた。
スプレーの粒がきらきらと宙を舞い、葉の上に小さな光の粒が散る。
気温よりわずかに低い室温。
植物にとって“深呼吸できる空気”を保つため、千華はふと棚のモニターに目をやった。
風向きが少し変わってきている。
その予感と一緒に、扉の鈴が控えめに鳴いた。
入ってきたのは、肩までの髪をさらりと整えた女性。
グレージュのコートの襟元に、白い小花の束が覗いていた。
すずらんだった。
「……すみません、予約はしていないんですが」
「どうぞ、ゆっくりしていってください」
そう言って案内された椅子に腰を下ろすと、女性は花を静かに差し出した。
「このすずらん……咲いてたんです。空き家になった、私の実家の庭に。
手入れなんて何年もしてなかったのに。
でも、それを見たとき、なんだか戻ってきていいって言われた気がして……」
千華は受け取った花にそっと鼻を近づけた。
ほのかに土と草の香り、そして、微かに他人の手のぬくもりが残っていた。
「この香り……誰かが手入れしてたみたいですね。
たぶん黙って、水だけあげてたような。
風が通りすぎたあとの、やさしい残り香がしてます」
女性の目がわずかに揺れた。
「……そんなはず、ないと思ってたんです。
もう誰も、私のことなんて気にしてないって。
ずっと、“あのときのこと”を思い出されたくなくて、町には戻れなかった」
千華は言葉を挟まず、ただ頷いた。
沈黙が、花の香りのようにその場に漂った。
「すずらんってね、咲くとき、ちゃんと誰かが見てるって信じてるんです。
下を向いてるけど、本当は人の気配にすごく敏感な花なんですよ」
女性はふっと微笑んだ。
「……だったら、あの花が咲いてたの、
誰かが“見てるよ”って言ってくれてたのかもしれませんね」
その夕方、花逢の前の通りに差し掛かったとき、
すずらんの香りを抱えた女性の姿を見た数人の町の人たちが、小さく声を交わしていた。
「戻ってきたんだって」「……声かけた方がいいのかしら」
「前と少し雰囲気が違うね、なんていうか、やわらかくなった」
そして、通りすがりの小学生が、ふと振り返りながら言った。
「おばちゃん、帰ってきたの?」
女性は、驚いたように、けれど確かに微笑んだ。
⸻
千華は窓辺に立ち、そっと目を閉じた。
空き家の庭で、人の足音に気づいたように、
白い花の鈴が微かに音を立てている——そんな気配を、風が運んできた気がした。
ゆっくりと目を開けると、温室の外の草花がわずかに揺れていた。
千華はその小さな揺れを見つめながら、静かに呟いた。
「風が変わるときって、花の首が先に気づくんだよ。
……きっと、あの子の居場所、まだ残ってる」