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クリスマスローズの午後

クリスマスローズって、冬の終わり頃に咲く花なんだ。

うつむいたまま、静かに咲いて、あまり目立とうとしない。

でも、気づいてくれる人がいると、ちょっとだけ誇らしそうに見える気がする。

……だからぼくは、“見つけてもらうために咲く花”なんじゃないかなって思ってる

 朝の光が静かに差し込む温室で、月森千華は霧吹きを手に、葉の裏に細かく水を送っていた。

 気温より少し低いその部屋は、植物にとって“ちょうどよい呼吸の深さ”を保っている。

 千華はスプレーの手を止め、棚のモニターにちらりと目をやる。




 数秒、何かを読むように静かに見つめたあと、

 花の向きをひとつだけ整えて、再び霧を吹きかけた。



 扉の鈴がやわらかく鳴いたのは、午前も遅い頃。

 入ってきたのは、優しいベージュのカーディガンを羽織った女性だった。

 年の頃は六十代前半。手には、少し育ち過ぎたクリスマスローズの鉢を抱えている。




「こんにちは。すみません、予約していないんですけど……」




「大丈夫ですよ。どうぞ、おかけください」




 腰かけながら、女性は鉢をそっと差し出した。




「これ……少し前に近くの園芸市で見つけて。育て始めたんですけど、葉が広がりすぎてて。

 うまく咲いてくれるか、ちょっと心配で」




 千華は鉢を受け取り、手のひらで土の温度を確かめる。

 根元には微かに古い香水の香りが残っていた。淡く、けれどやさしく、手放せない何かを思わせる香りだった。




「名前をつけてない花って、意外と話しやすいんですよ。

 この子、たぶん“静かな場所が好き”なタイプですね。日差しより、空気で咲く花です」




 女性は、名前を訊かれていないことに、少しだけ安心したような表情を浮かべた。




「……夫はあまり、花のことはわからなくて。

 でも私は、声がしないものと一緒にいると落ち着くんです。

 この花も、何も言わないけど、何か返してくれてる気がして」




 千華はその言葉に、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 彼女自身、言葉より空気を信じている。だからこそ、理解できる感覚だった。




「ええ、きっと返してくれてます。

 声じゃなくて、湿度とか、風とか……そういうもので。

 もしよければ、一晩だけ預からせてもらえますか?

 ここに馴染むと、もう少し“返し方”が増えるかもしれません」




 女性は少し驚いたようにしたが、目元にうっすら安堵の色が滲んだ。




「……じゃあ、お言葉に甘えて。

 その子、うまく話せるようになるといいんですけど」




「大丈夫です。ぼくが、聞いておきますから」





 千華は頷き、そっと鉢を棚に置いた。






 午後も少し過ぎた頃、今度は二十代後半くらいの若い女性がやってきた。

 黒髪を一つに束ね、シンプルなトートバッグ。無駄のない所作。

 彼女の手にも、クリスマスローズの鉢があった。




「これ、母からもらったんですけど……私、育て方が全然わからなくて」




 千華は、鉢に鼻を近づけ、ふわりと香りを吸い込む。

 そして、少しだけ微笑んだ。




「……さっきと、同じ香り」




 女性は首をかしげる。




「何か、変でした?」




「ううん。いい香りだよ。育て方、難しくないよ。

 この子、根が張ってきたから、来年あたり、咲くタイミングが合えば、また咲くと思う」




 彼女は、少し照れたように笑って頷いた。






 二人の客は、時間をずらして訪れ、名乗ることもなかった。

 けれど千華の中には、静かに確信が芽生えていた。




 “あの人たちは、きっと……母と娘だ”




 名前を言わなくても、言葉の癖や、花への手の添え方、香りの重なりが物語っていた。

 それは偶然のようでいて、たしかな“関係”の残り香。




 千華は、使いかけの種袋を取り出し、封を閉じたままポケットにしまった。




————





(その夜、工房の静かな温室)


 


千華は、預かった鉢の前にしゃがみ込んでいた。

葉の広がりは大きく、けれど重さは軽い。水を求めているわけではなく、

“どこに咲いていいか分からない”ような、そんな躊躇いが全体に漂っていた。


 


彼女はペンを手に取り、観察ノートの端にいくつかメモを書く。

数値ではなく、千華独自の言語で。


 


「呼吸浅め」

「周囲の空気に気を遣っている」

「根元、手入れの記憶あり——やさしくされてた」


 


それから、軽く葉の先を剪定し、向きを整える。

深くも浅くもない、ちょうどいい風が通るように。


 


「……無理に上を向かなくてもいいよ。

誰か、ちゃんと気づいてくれる人がいるなら、それでいいんだよ」


 


翌朝、鉢はわずかにしんなりとした葉の角度を取り戻していた。

千華はそっと指で支え、返却の準備を整える。





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