ポピーは揺れて、名前を呼ばない
ポピーってね、紙みたいに薄い花びらをふわっと広げて咲くんだ。
明るいオレンジや赤、白なんかもあって、風が吹くとすぐに揺れて、あっという間に散ってしまう。
だけどこの花、意外としたたかでね、光と気温のちょっとした変化を感じ取って、土の中では次の準備を始めてる。
ぼくには、そんなポピーが“忘れかけてた記憶に触れたときの心”みたいに見えるんだ。
ねえ、あなたにも、ふと揺れる何かが残ってる気がしない?
花逢の工房には、朝から静かな風が通っていた。
カーテンがわずかに揺れ、乾いたラベンダーの香りが微かに漂う。
月森千華は、窓際に並べたドライフラワーの整頓をしていた。
その指先は、まるで花と話すように優しかった。
扉の鈴がちりんと鳴る。
ふと顔を上げると、見慣れない少女がひとり、入口に立っていた。
まだ十代半ば。長めの前髪に、よく通る声。
「……あの、これって、ポピーですよね?」
そう言って差し出されたのは、くすんだオレンジのドライフラワーだった。
しっかりと乾いているが、花びらの縁には微かに泥がついていた。
「うん、そう。アイスランドポピーかな。
最近、見かけなくなったの?」
「……はい。うちの庭で、昔よく咲いてたんです。
でも、最近行っても、全然咲いてなくて……」
千華は少女の瞳を静かに見つめた。
その奥に、何かを確かめたいけれど、踏み込まれたくないという空気が漂っていた。
「よかったら、お名前教えてもらっていい?」
「……“ミヲ”でいいです。カタカナで、“ミヲ”」
それが本名でないことは、千華にはすぐにわかった。
でも、深く聞くことはしない。
花逢では、名乗りたくない気持ちにも、きちんと場所を用意してある。
「このポピー、ちょっと変わってるんだ。
咲く時期でもないのに採られて、そのあと乾かされた形跡がある。
たぶん……“咲かせてもらえなかった”んじゃないかな。咲く前に、止められたみたい」
ミヲのまつ毛が、ふるりと揺れた。
「庭の手入れが変わったとか、引っ越しちゃったとか、そういうの、ありませんでした?」
「……前に住んでたところ、急にいろんなものがなくなって、
気がついたら違う場所にいたんです。
今いるところも、悪い人たちじゃないんだけど……あの庭、また見たくて」
千華はそっと微笑む。
この子は、花の記憶を探しに来たのだ。
「おかえりなさい、って言ってくれたのかもね、ポピーが」
そのとき、扉が開いて、笠井智也が工房に入ってきた。
「ごめん、ちょっとだけ資料を——ああ、客中だったか」
「うん、大丈夫。笠井さん、こちら“ミヲ”ちゃん。花の相談中」
笠井は軽く頭を下げ、何も聞かずに、千華に封筒を渡して引き返そうとした。
そのとき、一瞬だけミヲの目が彼を追った。
(この子、人に慣れてないのか……それとも、慣れすぎてるのか)
そんなことを思いながら、笠井は静かに立ち去っていった。
ミヲが帰る間際、千華は小さな袋をそっと手渡した。
中には、ポピーの種が数粒入っている。
「無理に咲かせなくてもいいよ。
でも、いつか“また見たい”って思えたとき、これがあれば、きっと咲いてくれるから」
ミヲはうなずき、小さく「ありがとう」とだけ言って、風の中に消えていった。
⸻
扉の外、ポピーのドライがかすかに揺れた。
その軽やかな音が、空気に紛れて残る。
千華は窓辺に立ち、ぽつりとつぶやいた。
「名前がなくても、咲く花ってあるからね。
……風の中でも、また咲くよ。覚えてたら、きっと」