ヒヤシンスは何も聞いていない
ヒヤシンスってね、すごく素直な花なんだ。
土の中で息を潜めてるのに、春の匂いがするだけで、もう芽を出す準備をしてる。
だから、空気が“変わった”ってときに、真っ先に教えてくれるんだよ
その日、月森千華は温室の床で膝をつき、ヒヤシンスの鉢をいくつか並べていた。
それぞれの球根が、伸ばし始めた葉をどの方向へ傾けているか、静かに見つめている。
日光の入り方、湿度、風の流れ。彼女にとっては、どれも「話しかけられた」記録のようなものだった。
「やっぱり、来てたんだな。こんな時間に」
聞き覚えのある声。
振り返ると、扉の前に笠井智也が立っていた。
スーツのジャケットにわずかに埃がついているのが、彼らしい。
「こんにちは、笠井さん。今日も“証拠にならない何か”を探しに?」
「まさにそれだ。今回は、ちょっと微妙な件でな。
証言はある。記録も整ってる。でも、“空気がずれてる”としか言えないんだ」
千華は笑い、ヒヤシンスの鉢を一つ持ち上げた。
「空気の話なら、ぼくの得意分野かもしれないよ」
話の中心は、あるビルの一室で起きた軽微な窃盗未遂だった。
目撃者のひとりである斎藤美咲は、「何も見ていない」と繰り返している。
だが笠井は、その場にあった植物の配置や換気の状況から、「誰かが近くにいた」と確信していた。
「そのときベランダに出してあった鉢植え。ヒヤシンスだった」
「球根を使い捨てにする人が多いけど、あれはちゃんと世話されてた。
季節外れの光の傾きにも反応してた。俺が見たときには、葉が“人の出入りに沿う方向”に伸びてた」
千華は静かに鉢を眺めながら、ぽつりと言った。
「……誰かが近くに来た。気配を感じた。
でも“見ていない”と言い張るのは、本当に嘘なんだろうか?」
千華と笠井は、現場の再調査を兼ねて、その部屋のヒヤシンスを確認することになった。
窓辺の鉢は、たしかにベランダとは逆の方向に伸びていた。
だが、光の差し方としては不自然だった。カーテン越しの暗がりに向かって、葉がのびていた。
「人の体温、かな」
「え?」
「この方向、過去三日間に午後の時間だけ湿度が上がってる。
誰かがそこに立っていたんだよ。窓越しに。
ヒヤシンスはね、光だけじゃなくて、体温と湿気にも少しだけ反応するんだ」
笠井は腕を組み、苦い顔をした。
「つまり、彼女は“何も見ていない”のは本当だが、
“誰かがいたことを感じていた”可能性は高い、と」
「うん。見てなかった。でも、“知らなかった”わけじゃない。
知らないふりを、選んでただけかもしれない」
後日、笠井は美咲に再び聞き取りを行った。
「何も見ていないです」と、彼女は変わらず答えた。
だが、鉢植えのヒヤシンスを手入れしていたその手は、かすかに震えていたという。
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温室の中。ヒヤシンスの鉢が風に揺れた。
小さな葉が、夕陽の射すほうとは逆に傾く。
千華はそれを見ながら、笠井の残していった言葉を思い出していた。
「君の言うことは、いつも間接的だな」
そのとき千華は、こう返したのだった。
「直接じゃないから、嘘が入り込まないのかもしれないよ。
植物はね、言い訳しないから」
ヒヤシンスの葉が、ふわりと揺れた。
それは、誰かの沈黙が確かにそこにあったことを、そっと証言しているようだった。