オレンジブロッサムと、約束のひとつ手前
オレンジブロッサムって、柑橘の白い花なんだけど、
香りには“緊張の奥にある希望”みたいな成分が混ざってるんだよ。
だからね、嘘つきそうなときに嗅ぐと、ちょっとだけ本音に戻れる気がするの
春先の午後、花工房「花逢」はあたたかな光に包まれていた。
温室の奥で月森千華は、小さな鉢の根の湿り具合を確かめていた。
木の芽の水分量と、室内の湿度。呼吸するような観察。
そんな作業をしていたところに、扉の鈴が軽く鳴った。
「こんにちは、予約していた吉井です」
朗らかな声だった。
入ってきたのは、ベージュのジャケットに身を包んだ男性。
明るい表情だが、その奥にふとした居心地の悪さを滲ませている。
手には、やや大きめの鉢を抱えていた。
「これ……オレンジの木なんですけど、
数年前に、付き合ってた彼女が置いていったままなんです。
引っ越すって言って、そのまま……返事も来なくて。
ずっと世話だけはしてたんですけど、最近、そろそろ手放すべきかなって」
千華は鉢を受け取り、土の表面と枝先の様子を見た。
葉の先は少し焼けていたが、中心は柔らかく、蕾が小さく膨らんでいた。
「……花芽が、まだ残ってますね。剪定すれば、また咲きますよ。
香り、好きですか?」
「……あんまり覚えてないです。
でも、彼女はよく“気持ちが落ち着くから”って言ってました」
千華は顔を寄せ、そっと香りを吸い込む。
「この子、ずっと“言いたいこと”を飲み込んでたみたい。
誰かの気配を感じてたけど、ちゃんと聞いてもらえなかったっていう……そんな空気です」
吉井の笑顔が、わずかに揺れた。
「……ある日、突然いなくなったんです。
何も言わずに。俺、何が悪かったのかも分からなくて。
でも……もしかしたら、俺のほうが先に、何かを見ようとしてなかったのかもしれません」
「たとえば?」
「……彼女、この木を“すごく好き”って言ってたのに、
あるとき俺、何気なく“手がかからないサボテンの方がラクだな”って言っちゃったんです。
冗談のつもりだったんですけど、あのとき彼女、ちょっと黙ってた気がします」
千華は、枝を一本指で持ち上げて、静かに頷いた。
「植物はね、“捨てられるより、放っておかれる方がつらい”って空気を出すんだよ。
この子も、“気づいてほしかった”って感じ。
もしかしたら彼女、自分から出ていったんじゃなくて、“置いていかれるのを、止められなかった”のかもね」
吉井は鉢をじっと見つめ、眉をしかめた。
「……俺、嘘をつかれてたと思ってました。
けど、もしかしたら——嘘ついたの、俺のほうだったかもしれないですね。
“わかってるつもり”のふりして、本音、全然聞いてなかった」
千華は微笑む。
「でもね、植物って、枯れそうでも、ちゃんと育て直せばまた咲くよ。
この子にも、つぼみがある。……たぶん、まだ咲くタイミングを待ってる」
吉井は、鉢を少しだけ胸に近づけて、短く息をついた。
「だったら、もう一度育ててみます。
……ちゃんと“言葉にできるタイミング”が来るまで。
もしもう一度会えたら、そのとき、ちゃんと渡せるように」
⸻
帰り際、吉井は工房の扉を開けたところでふと立ち止まった。
鉢の中央に、白く小さな蕾がひとつ、ふくらんでいた。
「……また咲くんだな、こいつ」
窓際に立つ千華は、静かに頷いた。
「約束のひとつ手前でも、花は咲くんだよ。
忘れてさえいなければ、きっとね」