スターチスと、言えなかったごめんね
スターチスってね、水を抜いて乾かしても色が褪せにくいんだ。
だから、思い出を“枯れないまま”残しておきたい人がよく選ぶ花。
……花って、ときどき、人より記憶が長持ちするんだよ。
町はずれの川沿いに、小さな花工房がある。
名前は「花逢」。
花屋でもなく、研究所でもなく——けれど、なぜか「空気が整う場所」だと、人は口をそろえる。
その工房の中で、月森千華は今日も植物と静かに向き合っていた。
スプレーボトルの霧が陽にかすみ、白衣の袖がふわりと揺れる。
そんな午後、控えめなノック音が扉を叩いた。
「こんにちは……あの、スターチスを見てほしくて……」
声の主は、制服姿の中学生だった。
整ったポニーテールに、背筋の伸びた姿勢。けれど笑顔は、どこか演じているように見えた。
「贈り物にしたいんです。祖母に……。きれいに整えて、長く飾れるようにしてほしくて」
千華はスミレの鉢から手を離し、少女の手元を見つめた。
薄紫と白の混じったスターチスの花束。
見た目はまだ新しく、きれいにまとめられている——けれど、香りに、わずかに違和感があった。
「……スターチスってね、水を抜いて乾かしても色が褪せにくいんだ。
だから、ドライフラワーにして“記憶を残す”ために使う人が多いんだよ」
「……へえ。じゃあ、ちょうどいいですね。
思い出って、すぐ消えちゃうから……」
千華は一瞬、少女の視線の先を探った。
その目は、まっすぐこちらを向いているのに、どこかの“過去”を見ているようだった。
「お祖母さまに、直接渡す予定ですか?」
「はい。……ええと、たぶん、今週末に」
答え方が不自然に整いすぎていた。
千華は、スターチスの茎の先を少し削りながら、葉の乾き方を確認した。
表面はきれいに整えられていたが、根元にわずかに土の痕跡が残っている。
乾かし始めてから、一週間以上は経っていた。
「……この子、もうずいぶん前から切られてたね。
すでに“別れの空気”を吸ってる。……君が話すより、ずっと前から」
少女は、口を開きかけて——黙った。
肩の力がわずかに抜けて、笑顔が消える。
「……おばあちゃん、亡くなってるんです。
もう、半年以上前に。でも、最後、ケンカしたままで……。
何も言えなかったのに、今さら“ごめん”なんて、ずるいでしょ?」
千華は静かにスターチスを受け取り、余分な葉を整えていく。
手はなめらかに動きながらも、表情は変わらない。
「スターチスの花言葉、知ってる?
“変わらぬ心”、“永遠の記憶”——それはね、“言えなかった想い”を、ちゃんと花が預かってくれるって意味でもあるんだよ」
「……預かって、くれるんですか?」
「うん。花が受け取って、風にまぎれて、きっと届く。
だから、“今さら”でも、ちゃんと“いま”言えばいい。
植物ってね、“遅すぎる謝罪”を笑わないから」
少女の目がゆっくりと伏せられ、肩がかすかに揺れた。
「……言いたかったんです。“ありがとう”も、“ごめん”も。
おばあちゃん、庭の世話ばかりして、全然話を聞いてくれなくて。
でも、本当は……聞いてなかったの、わたしかもしれないのに……」
千華は布に包まれたスターチスをそっと整え、風を通すようにひとつ隙間を空けた。
「風が通れば、香りもやさしくなるよ。
人の心も、たぶん同じなんじゃないかな」
少女は包みを胸に抱き、深く頭を下げて工房をあとにした。
扉が閉まったあと、千華は空になった椅子をしばらく見つめていた。
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その日の夕暮れ、工房の棚に残された小さなスターチスの切れ端が、風に揺れていた。
千華はそれをひとつ摘み、手のひらでそっと包む。
「……残ってもいい記憶って、あるんだよ。
それが、ずっと枯れないでいてくれるなら」
指先の温度に反応するように、スターチスの薄い花びらがわずかにきしむ。
音にならない声で、乾いた色がふっと震えた。
それはまるで、静かに頷いたみたいに。