名もなき花に
ヒナギク──デイジーとも言うこの花は、よく見れば道ばたに咲いてる。
でも子どもって、不思議とこの花に名前をつけたがるんだよね。
たぶん“気づかれたい”って気持ちに、花の側がそっと応えてるのかも。
朝の光が工房に差し込むころ、
千華は霧吹きの手を止め、裏庭に目をやった。
風が、庭の端に群れて咲く**デイジー(ヒナギク)**を揺らしていた。
白く小さなその花は、どこにでもある草のようでいて、
なぜか、名を呼びたくなる。
扉の鈴が鳴る。入ってきたのは、小さな女の子と、その母親だった。
「……この子、お花に名前つけるのが好きなんです。
でも最近、“名前のない花”があるって言い出して──」
千華はしゃがみこみ、女の子に目を合わせる。
「ねえ、どんな花だった?」
女の子は言う。「白くて、ちっちゃくて、土のところで一人で咲いてたの」
それを見て、“かわいそう”と思った、と。
千華は少し考えてから、庭の一角へ案内した。
そこに、ひとつだけ咲いていた白いデイジーを指差す。
「これかな。……名前、つけてあげる?」
女の子は、ぱっと表情を明るくして言った。
「……“しずく”って名前にする。ちょっとだけさみしそうだったから」
千華は微笑む。
「いい名前だね。
名前をもらった花ってね──声は出さないけど、ちゃんと覚えてるよ」
帰り際、女の子は何度も振り返って、「しずく、またね」と手を振った。
千華は、ふと過去の記憶を思い出す。
あの研究所の片隅、自分が初めて名をつけた花も、
小さな白いヒナギクだった。
それは、誰にも話しかけられなかった頃の彼女が、
初めて“何かに返事がもらえた”と感じた出来事だった。
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夕方、風が吹き抜けた庭で、
一輪だけ残ったヒナギクが、小さく揺れていた。
千華は手帳の片隅に、こう記した。
「名前をもらうって、ちょっとだけ世界とつながることだ」