ホトトギスの咲く頃に
ホトトギスって、野の奥で咲く控えめな花なんだ。
斑点の模様があるのに、目立たない。でも、それが逆に魅力なんだよね。
誰にも気づかれなくても、咲いてるってだけで──誰かの記憶には残る花。
雨の午後だった。
工房のガラスに小さな粒が当たり、淡くけぶる空気の中、
温室の片隅に、小さな花が咲いていた。
斑点模様のある、控えめな白紫の花──ホトトギス。
開花を記録しながら、千華は手帳に“HTG-002”と走り書く。
それは、もう何年も使っていなかった分類コード。
彼女が研究施設にいた頃、植物たちに与えていた記録番号だった。
鈴の音とともに、扉が静かに開く。
立っていたのは、長身の男性。
年齢は四十代半ば、黒縁眼鏡に雨を含んだジャケット。
整った姿勢のまま、工房の空気を一度深く吸い込んだ。
「……変わらないな。植物のにおいが先に出迎えてくれる」
千華は手を止め、目を細める。
「……白根さん」
「よく覚えてたな」
白根透──千華が研究施設にいた頃、
生育環境の外部データをまとめていた技術員だった。
多くを語らず、声をかけることもほとんどなかったが、
千華の扱う植物の記録だけは、毎日黙って確認していた。
「所長、旅に出ちまったろ。連絡もとれなくてさ。
でもあの温室、君の植物がまだ生きててさ。
……これも、そのひとつ」
彼が差し出したポットには、雨に濡れたホトトギスの苗があった。
根本はしっかりしていて、手入れの跡もある。
「これ、君が最後に命名コードつけた個体だった。
もう処分対象だったけど……捨てられなかった」
千華は小さくうなずき、苗にそっと指先を添える。
湿った葉の感触と、あの頃の静かな空気が、重なっていく。
「……昔のわたし、何も話さなかったですよね」
「話さなかったけど、植物とはよく喋ってたよ。ログにも書いてた。
“今日は葉がしゃべってくる気がする”とか、“pHが機嫌悪い”とか」
小さな笑いがこぼれる。
かつての“研究員とデータ記録係”の距離が、少しだけ和らぐ。
「……花逢の空気、すごくいいな。
君が作った場所、やっぱり呼吸しやすいよ」
白根はポットを棚に置くと、窓辺を一度見渡し、傘を手に取った。
「俺も、もう研究からは離れたけどさ。
植物が誰かの記憶に咲くってこと、君に教えられたと思ってる」
そして、帰り際。取っ手に手をかけたところで、ふとだけ振り返る。
「……花って、咲くんだな。あのときのままじゃなくても、ちゃんと」
千華はゆっくりと頷く。
「ぼくも、少しは“人”と咲けるようになったかもしれませんね」
⸻
雨があがった温室で、ホトトギスがひとつだけそっと揺れる。
斑点の花弁が、誰かの記憶のしるしのように残っていた。
千華は手帳の隅に、こう書き留める。
「静かな花の記憶は、忘れられないままでいい」