ムスカリのやさしい噓
ムスカリって、地味だけど強くて、近くにいると香るんだ。
気づかれにくいのに、ふっと記憶の奥に残るタイプ。
“誰にも言えなかったありがとう”に似てるって、ぼくは思ってる。
三月の終わり、工房の前にある小さな鉢植えが静かに色づいていた。
紫色の小さな房がいくつも並んで、地面に近いところで、そっと咲いている。
千華がその花に霧吹きをひと吹きすると、甘くて、どこか懐かしい香りがふわりと立ち上る。
そのとき、入口の鈴が控えめに鳴いた。
「……すみません。あの、こないだ咲いてたこの花の名前、教えてもらってもいいですか?」
訪れたのは若い女性で、どこか緊張した面持ちだった。
写真に撮った小さな紫の花をスマートフォンで見せる。
「ムスカリだよ」
千華は微笑んで、鉢植えのひとつを示す。
「春に咲く球根植物。甘い香りで、目立たないけど意外と根強い人気があるの」
女性は少し安心したように頷いた。
そしてぽつりと、こう言った。
「……あの日、駅の近くの小さな公園で、足をくじいて座り込んでたら、
声をかけてくれた人がいたんです。
ベンチの脇に、この花がふわっと咲いていて…… なんだか、“その人と似てる”って思ったんです」
彼女は、「何かを伝えたくてここに来た」と言った。
でも、「誰に伝えるのか」は自分でもよく分からないのだという。
千華はムスカリの鉢をひとつ、そっと包んで差し出した。
「なら、この子に伝えてもいいよ。誰かの記憶に咲いてる花って、言葉の代わりになるから」
女性はそれを受け取り、ほっとしたように息をついた。
「……じゃあ、ありがとうって。
そのとき、言えなかったから──今、代わりに」
———
その夜、工房の棚に残されたムスカリが、わずかに香りを強くした。
まるで“その気持ちは、ちゃんと届いたよ”とでも言うように。
千華は、ノートの端にひとことだけ書いた。
「やさしい嘘も、ときどきは本当になる。花ってそういうこと、知ってる」