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残り香のラベンダー

香りには、記憶が宿るといいます。

ときにはそれが、言葉よりも確かな“気配”になることも。

月森千華がそっと向き合う、ある一枚の布と、やさしい記憶の話。

 ある晴れた午後、花工房「花逢」の扉が、キィ、と小さく軋みながら開いた。

 軒先の風鈴が控えめに鳴り、わずかにミントの香りが風に乗って室内へと流れ込む。


 温室の奥では、千華がスプレーボトルを片手に、アジサイの茎を一本ずつ点検していた。

 霧吹きの先に光が反射して、小さな虹が浮かぶ。

 その手を止め、千華は顔を上げる。

 束ねた髪が肩にかかり、草葉のような色の瞳がそっと入口を向いた。




「いらっしゃいませ……あ、笹本さん」




 入ってきたのは、町内でも評判の上品な老婦人、笹本澄江だった。

 淡いグレーのカーディガンに、薄紫のスカーフ。

 手には、丁寧に包まれた布と、古びた日記帳が抱えられていた。




「ちょっと……相談というか、見てもらいたいものがあってね」




 千華は奥の机を片付け、温室に近い席へ案内する。

 工房の中は、今日もラベンダーとミントの香りが混じっていたが、澄江の持ち込んだ布からは、さらに濃く、どこか懐かしい香りが漂っていた。




「ラベンダー、ですね。乾燥させて、包んであったんですか?」


「ええ。主人の遺品なの。

 この布にくるんで、ずっと引き出しに入れてたんだけど……最近、香りが少し変わった気がして。

 気のせいかもしれないけど、なんだか違って感じて……それで……」




 千華は布をそっと広げ、目を閉じて香りを吸い込んだ。

 揮発の層が崩れている。温度差のある空間にさらされた揮発性成分は、香りの立ち方に微妙な“波”をつくる。

 けれどそれは、自然な劣化とは少し異なっていた。




「……この香り、たしかに少し乱れてますね。

 でも、不思議と不快ではないんです。……誰かが、最近触れましたか?」




 澄江は驚いたように目を見開いた。




「……やっぱり、わかりますか?

 実は先週、うちの子が珍しく泊まりに来て。

 何も言わなかったけど……もしかしたら、部屋を……」




「ええ。布が、一晩“人の体温と同じくらいの場所”に置かれてた気配があるんです。

 手で触れたというより、そっと胸の近くに置かれていたような——そんな香りの動きでした」




 千華は日記帳を開く。

 万年筆の走り書きの跡。途中までしか書かれていないページがあった。

 そこに、わずかに新しい指の跡と、ページの端だけ、微かに折れていた。




「たぶん……何かを読みたかったんでしょうね。

 でも、それを口にするのは……まだ難しかったのかもしれません」




 澄江は布をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。

 それから、小さく息をついた。




「……主人がね、最後に何を書いてたのか、ずっと気になってたの。

 わたしは怖くて読めなかったけど……あの子は、読んだのかもしれないわね。

 ……優しい子なんですよ、本当は」




 千華は、静かに微笑んだ。




「記憶の香りって、少しずつ変わるものです。

 でも、風通しさえよければ、また優しくなるんですよ」




 その日、澄江は布を受け取り、もう一度ゆっくりと包み直して帰っていった。

 持ち帰るときの手つきは、来たときよりもすこし軽やかだった。




 ⸻




 夜。

 工房に残されたラベンダーの切れ端が、静かに揺れていた。

 月明かりが温室のガラスを照らし、香りがほのかに浮かぶ。


「……やさしい匂いになったね。

 きっと、言えなかった言葉が、少しずつほどけたんだ」


  千華はその香りにそっと鼻を寄せて、目を閉じた。

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