ユーカリと、忘れたままの約束
ユーカリって、葉っぱのくせに、香りが強いんだ。
空気を整えて、湿度や匂いをやわらげてくれる。
だからぼくはね、**“自分の気持ちをまだ言葉にできない人のそばに置くといい”**って、よくすすめるんだよ。
香りが、気持ちの整理を手伝ってくれることもあるんだ。
その日、花逢にはめずらしく“葉”の束を持った女性が訪れた。
淡いカーキのシャツに、薄いピンクの爪。やわらかな香水のにおい。
だが、彼女の目元には、少しだけ曇った気配があった。
「この葉、なぜか捨てられなくて……何か分かりますか?」
差し出されたのは、銀丸葉ユーカリ。
色あせて乾きかけているが、まだほんのりと、薬草のような香りを保っていた。
女性は名前を美智子と言った。
数年前、引っ越し祝いにもらったという束。
ずっと部屋に飾っていたが、ある日ふと、「誰からもらったのか」が思い出せなくなっていた。
「忘れてもいいようなもの、なんですけど……
捨てようとするたび、胸がぎゅっとなるんです。不思議ですよね」
千華は黙ってユーカリの束を受け取り、香りを確かめる。
湿度に敏感な葉だが、ここ最近でいちど水を吸った痕がある。
どこかに差し戻して、もう一度誰かに“生かされた”形跡。
「……たぶんね、この葉、少し前に水につけ直されたんだと思う」
「え……?」
「誰かが、“思い出してほしかった”のかも。
忘れられてたこと、気づかれてたんじゃないかな」
女性はしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……もしかして。
あの時、“また遊びに来て”って言ったまま、約束を忘れてたかもしれない。
その子、引っ越しちゃって、もう連絡も取れなくて……」
ユーカリの香りがわずかに濃くなる。
空気を整えるように、感情の凹凸を静かに均していく。
帰り際、美智子はその束を受け取り、丁寧に紙で包んだ。
その手つきは、誰かへの贈り物のようだった。
「なんだか……“忘れたままでいい”って、思えました。
でも、ちゃんと“忘れたまま”ってことを、大切に持って帰ります」
千華はうなずいた。
「忘れてしまうことも、心が整うひとつの形だからね」
⸻
工房の棚に、もうひと束のユーカリが風に揺れていた。
水も挿していないのに、香りだけはふわりと空間に残っている。
千華は手帳の端に、ペンで記す。
「覚えていない記憶にも、届く香りってあるんだよ」