アジサイと傘の記憶
アジサイって、不思議な花だよね。
咲いてるあいだに、色が少しずつ変わっていくの。
雨が好きで、でもどこか寂しそうに見えることもある。
だからぼく、アジサイのことを「気持ちがまだ決まらない花」って呼んでるんだ。
六月の初め、朝から霧雨が降っていた。
工房の軒先に吊るされた風鈴が、濡れた空気の中でかすかに鳴る。
庭の片隅では、アジサイがまだ小さな蕾のまま、静かに色づこうとしていた。
千華は温室の端にある通気装置の前で、霧吹きの水温を調整していた。
湿度に過敏な種の反応を確認するログには、淡い青のボールペンで「花、迷い中」と書き足されている。
午後、花逢に珍しく傘をさした客が訪れる。
笠井だった。
「雨だな」
その一言だけを落とすように言い、傘をたたんで棚の横に立てかける。
「うん。雨音、聞こえる? アジサイが少し喜んでる」
千華は手を止めずに、笑みだけをそっと返した。
しばらくして笠井が言った。
「……昔な、雨が降るたびに、傘を貸してくる奴がいてさ。
俺が忘れるたびに、あっちは“いいよ別に”って言って。毎回だ」
「返さなかったの?」
「いや、返したよ。何度も。でもあっちは“それでまた会える”とか言ってさ……
あれ、なんだったんだろうな」
千華は棚のアジサイに目をやる。
紫と青の中間で迷うように揺れる蕾。
「ねえ、それって──返す約束じゃなくて、渡す理由だったんじゃない?」
笠井は一瞬目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……そうかもな」
工房を出るとき、笠井はまた傘を置いていった。
千華がそれを呼び止めると、彼は後ろ手に軽く手を振った。
「いいよ。忘れたことにしといてくれ。……また取りに来る」
————
その夜、軒先のアジサイが、ようやくひとつだけ開いた。
傘立てには笠井の傘が、静かに濡れたまま残っている。
千華はそっとアジサイに霧をひと吹きして、つぶやいた。
「きっと、ちゃんと返すつもりのある忘れものって……
一番、置いていきたかったものかもしれないね」