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ライラックの届かない手紙

ライラックってね、春に咲くんだよ。

小さな花が集まってひと房になって、ふわっと甘い香りを漂わせる。

でも、あの香りってね、どこか寂しいんだ。

“誰かに言えなかった気持ち”が、そのまま空気に混ざったみたいな。


ぼくはあの香りを嗅ぐと、

たまに「届かなかった手紙」っていう言葉を思い出すんだ

 その日、花逢の裏庭には、紫色の小さな蕾がぽつぽつと顔を出していた。

 ライラック。春先にだけ甘い香りを放つ、けれどどこか物憂げな花。


 


 千華は土の乾き具合を確かめながら、ふと風に乗って届いた香りに目を細めた。

 「……今年も咲くんだね」

 そう呟いた声に応えるように、枝がわずかに揺れた。


 


 


 昼過ぎ、ひとりの来客が花逢の扉を開けた。

 年の頃は四十手前、黒縁の眼鏡と薄い口紅。静かな気配をまとった女性。


 


「すみません……お花の相談を、してもいいでしょうか」

 その声には少し迷いがあり、言葉を選ぶ間が含まれていた。


 


 


 女性の名前は神田沙耶。

 十年以上前に亡くなった母に、手紙を出したいのだという。

 もちろん、届かないとわかっていて。


 


「でも……誰かに見てほしかったんです。

 いま、自分が何を思っているのか。

 母が好きだったのが、ライラックでした」


 


 手紙はまだ封をされていなかった。

 まるで何かが欠けているように──読み手のいないまま、書きかけで止まっている。


 


 


 千華は温室の奥に立ち、ライラックの枝を数本、細いリネン布で束ねた。

 「香りが届くとね、空間の気圧がわずかに変わるの。

 それってたぶん、誰かの感情が、空気に触れて動いた証なんだよ」

 穏やかな声でそう言いながら、そっと枝を差し出した。


 


「この花は、誰かの“声にならない手紙”に、一番近いと思うんだ」


 


 


 沙耶は小さく頷いて、封筒を閉じた。

 宛名も差出人も書かれず、ただ花と一緒に束ねられた手紙は、

 「届かないけれど、もう迷子じゃない」とでも言うように静かだった。


 


 


 別れ際、沙耶はふと尋ねた。


「……こういうの、意味があると思いますか?」


 


 千華は笑う。


「意味、なんてものは後から誰かが名前をつけるだけ。

 でも、“誰かに届いた気がする”って感覚は──たぶん、それだけでじゅうぶんだよ」


 


 



 


 その晩、花逢の裏庭では、ライラックがひとつ、静かに咲いていた。

 手紙は燃やされもせず、投函もされず、工房の棚にそっと置かれていた。


 


 風が吹くたび、封筒の紙がわずかに揺れる。

 そのたびに、花の香りがふわりと漂い、千華は目を閉じる。


 


「……届かない、ってことは、

 どこかで誰かが受け取ったかもしれないってことだよ」


 


 誰に語るでもなく、千華はそう呟いた。


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