クローバーと、ひとつ足りない話
白詰草ってね、ほんとうはどの葉も“三つ葉”がふつうなんだ。
でも、ちょっとしたストレスとか、遺伝の気まぐれで、四つ葉が現れることがある。
……だからって、咲かなくなった理由を“運が逃げた”なんて言わないで。
植物は、誰かのせいで咲くんじゃない。誰かがいた記憶で咲くの
午後、ひと雨降ったあとの空気はまだ少し肌寒く、
千華は花逢の戸を閉めて、白いコートをはおった。
向かうのは町はずれ、以前“庭の見直し”を依頼してきた高橋初音の家だ。
歩くうちに靴の裏に草の水分がにじむ。
細道の先にある古びた平屋の庭は、外からでもよく手入れされているのがわかる。
「白詰草、もう咲いてる頃だと思うんだけどね……」
出迎えた初音は、少し眉をひそめていた。
「全部、三つ葉ばっかりになっちゃったの。
去年までは、よく“見つかった”のに」
千華は庭の一角、石垣のそばにしゃがみ込み、白詰草の群れをそっとなぞった。
密度、陽当たり、土の状態。どれも問題はない。
それでも、四つ葉は一本も見つからない。
「このあたり、子どもがよく座ってたんじゃない?」
千華がふいに訊ねた。
「ええ。……うちの孫。
今はもう、連絡もないけど。
昔、よく“秘密基地”とか言って、ここに布敷いて遊んでた」
千華は微笑んだ。
「たぶん、それが“光”になってたんだよ。
植物はね、直接光だけじゃなくて、“誰かがそこにいた時間”もちゃんと覚えてる」
初音は少し目を丸くした。
「……記憶が、咲くの?」
「うん。逆に、記憶がなくなると、咲けないこともある」
千華はそっと、持参した鉢植えを取り出した。
中には、育てられた四つ葉のクローバーが一輪。
「一度だけ、置いてみて。
そしたら、もしかしたら……“咲ける理由”を思い出すかもしれない」
初音は静かにそれを受け取った。
夕暮れどき。
千華が帰り際、ふと振り返ると、庭のすみに咲いた白詰草のなかに、
ほんの少しだけ葉の多い影が、ひとつだけ揺れていた。
初音もまたそれに気づいたようで、小さく口元を緩めた。
「もしかして……孫が、こっそり来てくれたのかしらね」
そう言って、静かに目を伏せた。
千華は優しく笑い、歩き出しながら小さくつぶやいた。
「……そうだといいね。
でも、来てなくても、その場所を大事に思った記憶があれば……
植物は、それだけで咲くんだよ」
⸻
風が少し強くなり、庭の白詰草たちが一斉に揺れる。
その中で、ぽつんと顔を出す一輪の四つ葉。
陽が落ちる直前、そこだけがやけに明るく見えた。
そしてそのころ、花逢へと続く緩やかな坂道を、千華が歩いていた。
夕陽に背を押されながら、足取りはゆっくりと、風に髪をなびかせている。
千華はふと足を止めて、空を仰ぐ。
その目元には、柔らかくもどこか読み解くような光があった。
「“ひとつ足りない”って、忘れられたわけじゃない。
……思い出すための、空白かもしれないね」
小さくつぶやいた声が、風の中へ溶けていった。