夜顔のメモリー
夜顔ってね、夕方になると目を覚まして、朝には眠っちゃう。
たった数時間の命だけど、そのときだけは、誰よりもきれいに咲いてる。
……咲いてるところを誰かが見てくれたなら、それで十分なんだよ
その日の夕方、花逢には雨のあとの土と葉の匂いが満ちていた。
温室の奥、月森千華は静かにカーテンを引き、光の調整をしていた。
夜に咲く夜顔の鉢が、静かに“そのとき”を待っていた。
扉の鈴が、控えめに鳴る。
「相変わらず、しんとしてるな。ここは」
現れたのは、探偵・笠井智也。
黒いジャケットに、少し湿った髪。無言の足取りでカウンターへ向かうと、
小さな封筒をひとつ、音もなく置いた。
「机の奥から出てきた。ずっとしまってたやつだ」
「……捨てるのも、持ってるのも違う気がしてな。お前にやるよ」
千華は封筒を手に取り、軽く揺らして中身を確かめた。
「花?」とだけつぶやく。
笠井は、軽く肩をすくめた。
「押し花だ。たぶん、夜顔。昔、子どもがくれたやつ。
メモもある。読まなくてもいいけどな」
「読むよ。ぼくは、咲いてた花の言葉はちゃんと読む」
千華はそれだけを言って、封筒を胸元にそっと収めた。
その夜、千華は温室の端に灯りを落とし、夜顔の鉢を静かに見つめていた。
封筒から取り出した押し花は、紙に包まれてほんの少しだけ香りを残している。
小さなメモには、ぎこちない文字でこう書かれていた。
「よるのはな、さくときすきだった」
夜顔の開花は、夜の静けさを選ぶ。
千華はそっとメモを鉢の横に置き、霧吹きをひと吹きした。
気温と湿度、そして静かな時間の中で、夜顔がゆっくりと開き始める。
それは、誰かの記憶を受け取ったように、確かにひと晩だけ咲いた。
翌朝、扉の鈴がかすかに鳴いた。
軽い足音とともに現れたのは、探偵・笠井智也。
「……なあ。昨日の、あれ。
お前の目には……何か、わかったか?」
その声は、どこか探るようで、投げっぱなしでもあった。
封筒のことなど気にしていないような顔をしながら、
それでも“あれ”に少し引っかかっていたのだろう。
千華は小さく頷いた。
「うん、咲いたよ。
夜顔が、静かに。ちゃんと、その子の記憶みたいに」
笠井は目を瞬き、棚の鉢に視線を向けた。
「……咲いた? 押し花が?」
千華は小さく笑う。
「押し花は咲かないよ。
でも、咲いていたっていう“記憶”は、誰かが思い出せばまた動き出す。
ぼくは、そういうのを見るのが得意だから」
「……記憶が、咲いたってことか」
笠井は苦笑のような、納得しかけたような顔をして、鼻を鳴らした。
「それで十分ってやつか」
「うん。十分だよ。
咲いてたことを、見てくれる人がいたならね」
笹井はなにも言わず、扉へ向かって歩き出す。
取っ手に手をかけたそのとき、ふいに立ち止まり、わずかに肩越しに振り返った。
目元には、いつもの皮肉も問いもなかった。
ただ、自分には見えない何かを、
確かに見ている誰かを見送るような、そんな静かなまなざし。
「……お前が言うなら、そういうことにしとくさ」
その声には、諦めのような響きがあった。
けれどそれは拒絶ではなく、
理解の届かない場所に向けられた、理屈抜きの信頼だった。
扉が静かに閉まる。
———
その後、温室の鉢の中で、夜顔はしぼんでいった。
けれど、土の上に置かれたメモだけは、
まるで“咲いた時間”を忘れまいとするように、陽に透けていた。
千華はそれを指先でそっと押さえ、つぶやく。
「咲かなくても、咲いたことは消えない。
……思い出す人がいる限りはね」