カモミールの種は、拾われていた
カモミールはね、根を傷つけられると、前よりもっとよく育つんだ。
やさしく見えるけど、あの子、傷に強いんだよ。
だからぼくは、そういう花を“人に渡したくなる”んだ
午前の光がやわらかく工房を包む頃、花逢の前にふたつの影が立った。
ひとりは、ベージュのコートを羽織った女性。
もうひとつは、彼女の手を握る、小さな男の子だった。
扉の鈴が鳴る。
月森千華は棚の整理をしていた手を止め、顔を上げた。
「……おひさしぶり、ですか?」
女性は、少し驚いたように目を細め、そして控えめに笑った。
「覚えてるんですか? ずいぶん前に、一度だけ来ただけなのに」
千華は答えず、ただ静かに視線を下ろした。
女性の手には、小さな鉢植えのカモミールが抱えられていた。
「……あのとき、カモミールの種、ほんの少しだけもらって。
ダメ元で、うちのベランダに撒いてみたんです。
そしたら、ちゃんと芽が出たんですよ。
この子が、それを“拾ってくれた”んです」
女性の隣の男の子は、千華をじっと見つめていた。
五歳くらいだろうか。
ぽつりと、小さな声で言った。
「このにおい、しってる。……やさしいやつ」
千華はゆっくりとしゃがみ込み、男の子と同じ目線に立った。
「花の匂い、覚えてたんだね」
男の子は小さくうなずくと、ポケットから小さな紙包みを取り出した。
中には、乾いたカモミールの葉が数枚。
千華の手にそっと載せるように、差し出した。
「これ……せんせいが、“かえすんだよ”って」
千華はそれを、まるで宝物のように両手で受け取った。
葉から立ちのぼる香りは、ほろ苦く、それでいてどこか懐かしい。
「ありがとう。
こういうのを、“返ってきた風”って言うんだよ。
……あの種、ちゃんと、芽吹いてたんだね」
女性は、ほんの少し目を潤ませたように見えたが、何も言わなかった。
代わりに、鉢植えのカモミールを千華に差し出した。
「この子が、“ここに帰りたい”って言ったから……持ってきました。
根の調子を、ちょっとだけ見てもらえますか?」
千華は頷き、鉢を受け取った。
手にした瞬間、土の乾きと温度、根の呼吸が指に伝わる。
「……少し、無理して咲いてたね。
でも、大丈夫。ちゃんと戻ってこられたから」
女性は、黙って頷いた。
「また来ます。……返すもの、まだ残ってる気がするから」
千華は、鉢を静かに棚に置きながら、ぽつりとつぶやいた。
「花ってね、もらった人だけじゃなくて、拾った人のところでも咲くんです。
やさしさって、そういうふうに残るから」
⸻
千華の手のひらに残ったカモミールの葉から、
ほろ苦い香りがふわりと空気に溶けていく。
静かな温室の中で、風は吹いていなかったが——
その香りは、どこかから“返ってきた気配”を確かに残していた。