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ブルーロータスの調整室

ブルーロータスって、夜明けに咲いて、昼には眠る花なんだ。

水の中で静かに時を待って、誰にも急かされず、自分の光で開く。

ぼくはね……そういう花を、ずっと見ていたかったのかもしれない

 その日の花逢は、朝からわずかに空気が違っていた。

 湿度がほんの少し高く、風の流れもやや重い。

 月森千華は霧吹きの手を止めて、温室の奥にあるモニターにちらりと目をやった。

 空気が、“変わる前の気配”を持っていた。




 扉の鈴が鳴いたのは、ちょうどそのときだった。




「……久しぶりだな」




 懐かしい声だった。

 聞き返す前に、千華の指先はわずかに止まる。




 長身の男が、帽子を軽く押さえながら立っていた。

 白髪交じりの髪。無駄のない佇まい。

 月森千華が研究所時代、最も信頼していた人物——望月彰正だった。




「例の花、咲いたんですよ」

 千華はそう言って、にこりともせずに微笑んだ。






 彼がブルーロータスの球根を渡してきたのは、もう何年も前のことだった。




 当時、千華は研究所の一室で植物環境の細かな実験を続けていた。

 照度、湿度、CO₂濃度、風速、すべての数値を調整し、

「植物の呼吸パターンと人間の空気変化の反応性」などという誰にも理解されないテーマを追っていた。




 だが、所長だった彰正だけは、ただひとことだけ言った。




「君が楽しそうにしてるなら、それでいいよ。

 研究っていうのは、すぐに意味なんて出ないもんだろ」




 そのとき、彼がぽんと手渡してきたのが、一つの球根だった。




「青い睡蓮。ブルーロータスだ。

 育てるのは面倒だし、誰も花なんて咲かせたことない。

 でも……君が咲かせたら、きっときれいだと思ったんだよ」






 千華は無言のまま、所長を温室の奥へと案内した。

 工房の裏手にある小さなガラス扉を開けると、空気が変わる。

 そこは「調整室」と呼ばれる、千華しか立ち入らない半地下の空間だった。




 中央には、人工池が静かに広がっていた。

 水面には一輪の青い花——

 ブルーロータスが、風もない空気のなかで、ゆっくりと咲いていた。




「……本当に咲いたんだな」




 所長はぽつりと呟いた。




「環境調整、照度24時間周期、風なし、CO₂だけ微調整。

 咲くまでに四年、咲いたら、あとは毎年、同じ時に開くんです」

 千華の声は淡々としていた。




 所長はその花をしばらく眺めていた。

 そして、言った。




「君がここで生きてるなら、もうそれで充分だ。

 次の旅に出る前に、どうしても一度見ておきたかっただけさ」




 それが、別れの挨拶だということを、千華は理解していた。

 だから、何も言わずに頷いた。






 しばらくして、静かに扉が閉まる音がした。

 千華は一人、調整室に残り、池の縁に膝をついた。




 水面のブルーロータスが、ゆっくりとその花弁を閉じかけていた。

 日が昇りすぎると、花は眠る。




 千華は、そっと花を見つめながら、微かに目を細めた。




「……人に見せるためじゃなくて、

 ぼく自身が、この花に会いたかったんです。

 だから、この場所を作った。

 ずっと咲かせておけるように」






 ⸻




 人工池の水面に、ひとひらの光が落ちた。

 揺れることなく咲いていた花が、そっと、静かに眠る。




 千華はその光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。




「……あの人がくれた時間の中で、やっと咲いたんだね」




 調整室には、水の音だけが静かに響いていた。


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