笑わないスミレ
静かな花工房に、ひとりの少年が訪れます。
スミレの鉢と、ほんの少しの不安を抱えて。
町はずれの川沿いに、小さな花工房がひっそりと建っている。
ガラスの温室と木の扉。その前に立てかけられた板には、墨で「花逢」とだけ書かれていた。
季節は春。
川風に乗って、ミントとラベンダーの香りが入り混じる。
街の人々はこの場所を、“お花の病院”とか、“植物の相談所”と呼んでいた。
正確には誰もよく知らない。ただ、植物と空気が少し元気になる場所——それだけは共通していた。
温室の奥で、月森 千華は霧吹きを片手に、スミレの鉢を覗き込んでいた。
アッシュベージュの髪をざっくりと束ね、白衣にリネンのチュニック。腰には古びたツールベルト。
指先で葉の裏をなぞりながら、ふと顔を近づける。
「朝の空気ってね、昨日の感情をちょっとだけ残してるんだよ」
ぽつりとそんなことを言ったとき、工房の鈴がカランと鳴った。
「……こんにちは。スミレ、見てもらえますか?」
声の主は、小学三年生くらいの男の子だった。
前髪が乱れていて、靴のつま先に土がついている。
抱えていたのは、小さなスミレの鉢。
花は咲いていたが、茎がだらりと下を向いていた。土は濡れすぎて、鉢底まで湿っている。
千華はしゃがみこみ、鉢を覗き込んだ。
「君が育てたんだ。ずいぶん、大事にしてるね」
「……でも、すぐにしおれちゃうんです。
朝と夜と……帰ってからも水をあげてるのに、全然元気にならなくて」
千華は鉢をそっと受け取り、スミレの葉の角度と土の沈み具合を確かめる。
やさしく、けれど無駄のない動作だった。
「スミレってね、水は好きだけど、ずっと濡れてると息が詰まっちゃうんだ。
君のやさしさがちょっと多すぎて、呼吸できなくなってたのかもね」
「……怒られることが多くて……。この子まで枯れたら、もっと……」
少年は俯いた。「スミレにまで嫌われたくなかったんです」
千華は小さく頷いて、棚の奥から別の鉢を取り出した。
同じ種類のスミレ。咲きかけの花がひとつ、風に揺れている。
「この子は、去年ぼくが育てたスミレの種から生まれたんだ。
君のスミレと似てる気がする。よかったら、交換してみる?」
「……いいんですか?」
「もちろん。君のスミレも、ちゃんとぼくが見守るから」
少年は鉢を受け取って、しばらく黙っていた。
それから、ちらりと千華の顔を見上げる。
「……お姉さん、スミレのこと、人みたいに言うんですね」
「うん、そう見えるときがあるよ」
「じゃあ……元気になったら、何かお祝いしなきゃ。
でも、スミレって、そういうの……喜ぶんでしょうか?」
千華はふっと笑った。
「きっと、君が一緒に笑ってくれたら、それで十分だと思うよ」
少年は小さく頷いて、「ありがとうございました」と言った。
風がふわりと工房を通り抜けて、ミントの香りを残していった。
⸻
夜、工房の奥。
照明が落とされた温室の中で、陽太が置いていったスミレが、静かに葉を揺らしている。
千華はその前に腰をおろし、指先でそっと茎に触れた。
「……苦しかったね。
でも君も、ずっと“優しくしてもらってた”んだよ」
風がそっと吹いて、葉がわずかに揺れた。
まるで、それが返事だったみたいに。