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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ピザが繁殖する部屋に住む男と、繁殖したピザを駆除する男のBL

 朝から気が滅入る。ワンルームの部屋は、ジャンキーな匂いに満ちている。昨夜の夢は、行ったことのないアメリカ・マンハッタンのメインストリートを歩いていて、そこにいる人たちはみんなドナルドの噂を共有しているのに、自分だけそれを知らなくて焦る、という内容だった。こんな部屋に住んでいたら、当然そんな悪夢もみる。

 手持ち無沙汰に部屋の中を歩いていると、玄関のチャイムが鳴った。

「ピザキャップでーす」

 ドアを開けると、黒い制服を着た青年が立っていた。僕より少し若い、20代前半くらいだろうか。彼は頭からキャップ帽を取り、頭を下げた。髪は真夏の汗に濡れている。

「すいません、大変遅くなっちゃって」

 彼は、少し雑な口調に丁寧な語彙が交じった、若者特有の言語を使った。

「ああ、確か9時半に予約したんですけど」

 部屋の中を振り返って時計を見ると、とうに10時半を過ぎている。

「最近、注文が多くて。僕も二年ほど働いておりますが、今月が一番忙しいかも……あっ、申し訳ありません愚痴っちゃって。すぐやります」

 帽子を深くかぶったその素振りで、自分の多弁を心から恥じているのがわかった。彼が脱いだ靴は薄汚れた青のニューバランスで、買ったばかりの僕の白いニューバランスと並んだ。そのことを口にしようか迷ったけど、根が真面目そうな彼を困らせるような気がしたのでやめた。

「では、始めていきますね」

 床と壁に発生したピザを、銀色のヘラのようなものを使って剥がしていく。こびりついた焦げは、白ワインで湿らせた布を使って取る。新人のバイトだとこれが上手くいかずに、角の部分など焦げがついたままで帰っていったりするのだが、彼は慣れた手つきで綺麗に除去していく。ヘラを持ち上げるときに、トマトソースがはねて服を汚す。そのための黒い制服なのだが、これにも欠点があり、チーズがつくと目立つ上になかなか取れない。実際、彼の腕やら腿やらに過去の白い染みが残っている。

 普段、ピザの除去及び回収をしてもらうときは、部屋が狭いのもあって何となく気まずいので、頃合いを見て外に出るのだが、今日はピザ窯の中みたいな気温だし、この暑さで溶けたチーズを踏むと嫌だから、部屋と玄関の境目あたりで本を読んで待つことにした。大抵、清掃作業は1時間くらいで終わる。

 彼はしきりに汗を拭い、懸命に床を擦っている。これで時給が都の最低賃金に近いというのだから残酷な話だ。僕がいるせいでプレッシャーになっていたら申し訳ないので、本のページに指を挟んで、

「あの、僕のことは気にせずに、ちょっとでも疲れたら休んで大丈夫ですよ。今の季節なんてほんと熱中症とかになって危険なんで」

 と彼に言った。

「すいません、ありがとうございます、じゃあちょっと、5分だけ休憩してもよろしいですか」

 笑顔でそう尋ねる彼は、すっかり息が上がっている。もう少し早く声をかけてあげればよかった。冷蔵庫にあった麦茶をコップに注いで渡すと、何度も頭を下げてから一気に飲み干した。

 5分間を刻む時計の音を、外を走る救急車のサイレンが掻き消していく。音は限りなく近づいた後、唐突に止んだ。本に栞を挟んで立ち上がり、作業中で散らかった部屋を横切って、ベランダに面したカーテンを開けて道路を見下ろす。このアパートの向いにある古い一軒家の前に救急車は止まっている。救急隊員が素早く車から下りてくるのから目を背けて、空を見るとそれは、大きく膨らんだ入道雲に覆われている。心なしか緑がかっていて、クリームメロンソーダみたいだなと思う。すると、

「クリームメロンソーダみたいな空ですね」

 と、制服の袖で額の汗を拭いながら彼が言う。

「僕も同じこと思ってました。もうずっと飲んでないですけど」

「そうですね。毎日こんなジャンクフードばかり目にしてたら、あんなもん飲みたくなくなります」

「でも、本当に空がそうなってもおかしくないですね。ピザが、きのこみたいに生えてくる時代ですから」

 ホントですね、と笑って彼は、

「メロンソーダの雨が降るようになったら、世界中が甘くなりますね」

 と言った。冗談だと思い僕は笑ったが、キャップ帽の下の彼の微笑みは、何かを諦めたような、自罰的な感じがした。その表情が強く心に残る。


 その後、台所のピザ掃除が終わり、作業は全部で45分ほどで終わった。彼に確かな技術があるのは勿論、やはり僕が部屋にいたことで多少急かしてしまったのだろう。

「ありがとうございました。部屋がさっぱりしました。3150円であってますか?」

「はい、ありがとうございます」

 財布から金を出しながら、ふと気になって、こんなことを聞いた。

「この後もまた仕事が入ってるんですか」

「いえ、今日の清掃業務はこれで終わりなので、回収したピザを会社に持っていってから帰ります」

 来た時に比べて、口調のぎこちなさや変な丁寧さがなくなったのを頭の中で確かめてから、僕は、こんな提案をした。

「この後、一緒にどこか行きません?」

 彼は驚いて目を丸くした。そして、

「こんなピザくさい人間と、どこに行くつもりですか」

 と目を細めて笑いながら言った。冗談のつもりだったのだろうが、その微笑にはやはり自虐と寂しさがこもっていて、僕は、なんとか彼をこの呪いから救いたくて、いや救うとまではいかなくとも、少しの間だけでも忘れさせたくて、改めて提案した。

「海沿いに、従兄の友人がやってる蕎麦屋があるんですよ。昼ごはん食べに、どうです。運転していきますよ」

 蕎麦屋、と言ったときに一瞬目が輝いたのを僕は見た。彼の後ろ、窓の外で、飛行機がクリームに飲み込まれていく。

 少し間があってから、

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 と照れくさそうに俯きながら言った。


 職場から出てきた彼は、私服に着替えていた。その恰好がまた若々しく、年下であることを改めて意識させられる。

 海沿いの道路では時折、地面のピザを轢いて車体が揺れる。都会の中心とは違って、このあたりはまだまだ整備が行き届いていない。

『この番組では、我が青春の一曲というテーマでメールを募集しております。皆様が愛し、今も愛する歌謡曲を、ご自身の青春エピソードと共に教えてください。宛先は……』

 昼間のカーラジオは退屈だ。でも、この不自然な状況をうやむやにして、日常の一部だと自分自身に思い込ませるにはちょうどいい。……なぜだろう。どうしてそんな作為が必要なのか。僕はただ、気分転換のために彼を昼飯に連れて行っているだけだ。しかし僕は、他人に同情できるほど優しくも、親切な人間でもないはずだった。実のところ今の僕には、親切心や同情心以外の、なにか別の心理が働いているのかもしれない。でもそれがなんなのか、正体を尋ねるにはまだまだ暑すぎるから、どうでもいいJ-POPにのぼせたまま車を走らせた。

 助手席の彼は何を考えているのだろう。赤信号で止まっている隙に横目で見る。すると体を向こう側に逸らしたので、視線に気づかれたと思ったが、ふっとこちらを振り向いて、

「猫がいますよ」

 と、塀の上を歩く黒猫を嬉しそうに指さした。車内なのに、猫が逃げないように小声で教えてきたのが面白かった。

 12時の時報が鳴る。

『ここで、ニュースをお伝えします。本日、東京都内で行われた専門家会議にて、世界中で発生するピザの原因が、近年の過剰なグローバル化にあるという研究結果が発表されました。会議の後の記者会見にて、ピザ問題に詳しい東京総合大学理科社会学部の樋崎教授は次のような声明を出しました。

 "これまでもファストフード店の世界的かつ国際的なチェーン展開等により、地域的かつ部分的な食文化が驚異的なまでに脅かされるということが幾度も問題視されてきましたが、今回のピザ大量発生現象に関しましても、人々の文化多様性の軽視そして地域社会貢献に対する意識低下がその要因と考えられます。更なるhomogenization、すなわち均質化を食い止めるために、我々は自国の和食文化を積極的に推し進めるべきであります……"」


 海浜の駐車場に車を停める。

「蕎麦屋、ここから歩いて5分くらいのところにあるんですけど」

 そう声をかけたが、彼は気づかずに海を眺めている。甘い匂いのする潮風が、乾いた前髪を吹いている。

「海も、すっかりコーラになっちゃいましたね」

 波打ち際で炭酸が弾ける音が、ここまで聴こえてくる。

「ええ、本当ですね。これもさっき、ラジオで学者が話していた"過剰なグローバル化"のせいなんですかね」

 僕は冗談っぽく言う。あんなのは、自国第一主義の人間が自分の理論を補強するためにピザを利用しているだけだ。人間の意識だけで、ジャンクフードがぽんぽん生えてくるわけがない。

「僕が怖いのは」

 彼は真剣な声で続ける。

「ピザの味を忘れてしまったことです。僕はこの仕事で毎日、うんざりするほどピザを見ていますが。この間ふと、自宅の、ちょうど皿の上に発生したピザのソースを舐めてみたんです。一応、健康に害はないと聞いていたし……。そしたら、全く味がしませんでした。水を飲んでいるのと同じ、酸素を吸っているのと同じ感覚で……」

 砂浜には誰もいない。砂糖でベタベタするから海に入れなくなったというが、前だって塩の不快感はあったはずだ。それに今まで意識していなかったのは、僕らには酸素の味がわからないのと同じことかもしれない。

「僕、蕎麦、大好きです。でも、もし蕎麦が生えてくるようになったら、そのときには大好きな蕎麦の味も忘れてしまうのでしょうか。そんな風に、あらゆる好きなことがうんざりすることに変わっていって、遂に何も感じなくなる……それが僕は怖いんです。恐怖のあまり、この世界から逃げ出したくなってしまうくらい……」

 突然、彼は海に向かって駆け出した。

 僕は不吉な予感がしたのでその後を追いかける、追いつけない、僕の新しいニューバランスに砂が入って重くなる、脱いだら彼を一生失う気がしてそのまま走る、走る彼の青いニューバランスは忘れられた海の色で切なかった。

 彼は服を着たまま海に入った。ぱちぱちぱちぱち、という炭酸の拍手と共にどんどん体が黒に飲み込まれていく。僕もそのまま入って追いかけようかと思ったが、一緒に溺れては仕方ないので急いで服を脱いで下着だけになったところで、彼がこちらに戻ってきた。満面の笑みを浮かべて。

「よかった、コーラ、まだ甘い」

 そして僕の恰好を見て、すみませんご心配おかけました、と謝りながら、びしょびしょになった服を脱いだ。

 面食らって何も言えないでいると、

「そういえば、ニューバランス。お揃いですよね。玄関に入ったときに気づいたんですけど、なんとなく言えなくて」

 そう言って目を細めて笑うと、睫毛の先で揺れていた滴が目尻に流れ、頬を伝い、首で減速し、鎖骨の上で止まった。

 その黒く光る粒に思わず口づけると、彼の体は反射的に固くなって、それでも、少し上ずった声で、「甘いですよね?」と尋ねてきた。コーラの痛々しい甘さの中、ほんのわずかに塩気が混ざっていて、それが海の名残なのか、彼のものなのかわからないが、もうすぐ食べる蕎麦の味を忘れても、これだけは一生忘れないと僕は確信していた。

 

 とはいえ僕たちは、蕎麦のことなどしばし忘れて炭酸の海に浸っていた。

この作品は別サイトにて2023年7月17日に投稿したものです。

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