第9話 空中の死闘
ガルドー司祭が捕まっていないのが、不安ではあった。
あの人は祖国の役に立つ以外、自分の生きる価値を見出せない、可哀想な人だ。
わたしの育った、孤児院を偽装したスパイ養成期間。あそこにいつから彼がいたのかは知らない。いつからあんな、ろくな任務の与えられないところだったのかも知らない。
わたしの知るゴルドーは、いつかガーヴェラントをひっくり返すような重大任務を与えられ、祖国で英雄になることを夢見ていた。
それは、妄執といえるものだった。
そんな任務が与えられる可能性は限りなく低いし、もしそんなことがあって成功したとしても、どうせ使い捨てられるに決まっているのに。
大物スパイは国で偉くなれることもあると聞いたけど、ゴルドーがそんな風になれるはずはない。そんなに優秀なら、そもそもあんな、あってもなくてもどうでもいいようなところに、放置されないるわけがないのだから。
ゴンドラが止まったその瞬間には、まさかという思いが沸いた。窓の外でパラシュートがはためいていくのをみて、ああ、と思った。
こんな空中で、脱出ではなく襲撃にパラシュートを使う。それは、ことを成し遂げても逃げるつもりがないということで、つまり捨て身ということだ。
やけくそなのだろう。多分、わたしが裏切ったことに気付いて、もう何もかも終わりだと人生に絶望して、最後にわたしを道連れに、殺しに来たのだ。
ゴルドーという司祭は、そういう人だった。
扉の鍵を破壊した爆発は小さいものだった。多分、ろくな装備も物資も、用意できなかったのだろう。
余裕があれば、このゴンドラに爆薬を仕掛けて、空中でドカン。それで終わりだ。
それとも、自らの手で殺さないと、気が済まなかったのだろうか。
開いた扉から現れたのは、やはりゴルドーだった。ニタニタと笑っている。もう、狂っているのかな。
…わたしは裏切りを決めたとき、死ぬつもりだった。
幸運にも保護され、未来を与えられ、ここ数日は普通の旅行のようで本当に幸せだったけれども、覚悟ならいつでもできる。
お姉様を死なせるなんてことは、絶対にあってはならない。
傷一つすら許せない。
ゴルドーはもしかして、わたしのそういう気持ちに気付いていたのだろうか。
義家族、とりわけお姉様に対する気持ちに。
分からなかったけれど、とにかく、戦うしかなかった。
わたしは念の為に身に付けていた髪飾りを引き抜く。
この国の貴族女性は通常、花やレースをふんだんに使った髪飾りや盛り髪、または帽子で頭を飾るのが一般的だ。
しかし、わたしは花飾りに見せかけて、暗器を普段から身に付けていた。遠い国から伝わったとされる、鋭利な刺突武器のような形状をしている『カンザシ』というものだ。
銃や剣を相手には心許ない暗器だけど、ないよりましだ。
ゴルドーがゴンドラの中に入ろうとする。その手にはフリントロック式のピストルが握られていた。
考える間も無く、突進する。扉から蹴り落とせれば一番いい。わたしは貴族家に潜入するスパイだったから、ドレスのまま戦う訓練をしていた。片手にカンザシ、片手でドレスの裾を持ち、ゴルドーに蹴りを放つ。
ゴルドーが避ける。彼は放置され、期待もされなかったスパイではあるが、わたしより体格も良いし、経験も訓練期間も比べものにならない。
この男は、任務なんて与えられなくとも、来る日も来る日も鍛え続けていたのだ。
避けながらピストルを構えようとするのを見て、わたしは咄嗟に蹴り出した足を曲げて、ゴンドラの扉の横の壁を蹴った。
ピストルを万が一にも、お姉様に向けさせるわけにはいかない。
壁を蹴った反動で近付きつつ、カンザシを胸に突き立てようとするが、またも避けられる。
けれど、ピストルを撃てる体勢ではなくなった。
お姉様を狙われた時に盾になれるように射線上にいるべきか、わたしを狙う前提でお姉様に射線が向かない位置を保つべきか。
瞬間的に後者を選択した。ゴルドーの昏い目は、わたしだけを見ている。狙いはわたしだ。
ゴルドーが狭いゴンドラの中で後ろに下がる。ピストルがわたしに向けられる。またも身を低くして突進した。
爆発音。弾は外れた。これで銃はただの鈍器だ。窓の割れる音と、お姉様の悲鳴が聞こえる。
銃弾がお姉様に当たらなかった時点で、わたしの勝利は近かった。わたしは格闘戦でゴルドーには勝てない。だから、お姉様の安全のためには、勝つ方法は二つだけだったのだ。ゴルドーをなんとか空中に蹴り出すか、もしくは…。
カンザシを振り下ろす。ゴルドーがピストルでそれを受けた。でも狙いは最初から、カンザシを突き立てることじゃなかった。
カンザシから手を離し、わたしはゴルドーの腕を掴んで、足を絡めて引き倒した。体格が違うので、長時間は抑え込めない。けど、そんなに時間は要らない。
本当は、お姉様にわたしごと、このまま扉の外に蹴り出してもらうのが、最も確実だ。けれど、お姉様の力でそれができる保証はないし、それ以前にお姉様は絶対に拒否するだろう。
だから、わたしは後方のゴンドラに向かって、力の限り叫んだ。
「撃って!!!!わたしごとでいいから!!!!」
風もあったし、多少の距離はあったが、なんとか聞こえたようだ。護衛の軍人達がはっとする。視界の端で見えた彼らは、一人はゴンドラの外に乗り出している。ケーブルを伝ってこちらに来ようとしていたのだろう。そして、二人は銃をこちらに向けている。
わたしやお姉様に当たるから、なかなか撃たなかったのだろう。けれど、今はわたしがゴルドーの動きを止めている。
ゴンドラ同士の距離はそれほど離れてはいない。けれど、間にお姉様がいて、窓越しの狙撃。腕のいい人なら、この状態でもゴルドーだけを狙って当てられるだろうけれど、多分、狙撃専門の人でなければ難しい。
「だめよ、エルサ!」
お姉様が悲痛な声を上げる。その声だけで、わたしに悔いはない。
わたしはもう一度、軍人たちの方に声を張り上げた。
「はやく!もう、保たない…」
彼らの優先順位はお姉様のはずである。わたしは保護されたとはいえ、敵国のスパイ。護衛と同時に、監視でもあったはずだし、ディルケオンだって、お姉様の安全を最優先と指示しているはず。
けれど、お姉様が手を広げて、射線を塞いだ。
足を震わせながら、それでも体をめいっぱい広げて、わたしが撃たれないように、庇ってくれた。わたしが自分を犠牲にしてでもお姉様を守りたいと思うように、お姉様もわたしを守ろうとしてくれたのだ。
「だめ、お姉様…」
嬉しい気持ちと共に、限界がやってきた。ゴルドーがわたしの拘束を抜け出そうと暴れる。これ以上は抑えられない…。
お姉様が、落ちていたカンザシを拾った。悲壮な顔で、それを握って、ゴルドーに突き立てようとした。
しかし、ゴルドーはそれに気付いて、お姉様を蹴った。
お姉様が悲鳴をあげて倒れ込む。無理な姿勢で蹴ったから、ほんの少し拘束を強くできた。でもやはり、そもそもの体格が違いすぎる。もう力が入らない…。
その時だった。
「ぐっ…!」
遠くで銃声がして、びくんとゴルドーの体が震えた。そして、その体から力が抜ける。…撃たれたのだ。
軍人が撃ってくれたのかと思って後方のゴンドラを見る。けれど、彼らの顔は窓越しでも分かるくらい、呆気に取られていた。それに、この距離からの銃声じゃなかった。
不思議に思ったけれど、今は、どこから撃たれたのか考えるときではなかった。
「くそ…くそ…」
ゴルドーが苦しそうに、怨嗟の声を出す。
わたしは拘束を解き、立ち上がった。お姉様が抱き締めてくれる。
「エルサ…!」
涙声で名前を呼ばれて、わたしの視界も滲んだ。
「お姉様…無茶しすぎです」
お姉様の肩越しに、ゴルドーが最後の力を振り絞って、体を引きずっているのが見える。扉に手を掛ける。
「アウベスタ、ばん…ざ…い…」
そしてそのまま、空に身を投げた。
(下で、人に当たらなければいいけど)
そんなことを思いながら、わたしもお姉様を抱き締めて、二人で泣いた。
やがて、ゴンドラが動き出した。