第7話 最高のひと
「なんてこと…。エルサは、エルサは…死ぬつもりだったの?わたくしたちの為に?」
リンジトルム邸に押し掛けてから数日後、わたしは改めてディルケオンに会合の場を用意してもらい、エルサの考えや何が起こったかを知ることができた。恐ろしい陰謀とエルサの自己犠牲に、わたしはドレスの裾を握りしめた。涙が溢れてきて、前を見ていられない。
エルサはやはり、わたし達と同じように、わたし達家族のことを大事に思ってくれていたのだ。それこそ自分の命よりも。
「安心してくれたまえ。まだ細菌兵器を打ってもいない。あと数日あれば、エルサの安全を確保したまま、スパイ達を一掃できる」
ディルケオンの言葉に、わたしは顔を上げた。
「既に女王陛下には話を通しているし、軍とも情報を共有している。ことが終わればエルサは裏切りがバレるから、今まで通りの生活とはいかない。しかし、犯罪者として処罰されることはない」
「本当に!?ああ、ありがとう…ディルク…」
「なに、愛しい婚約者のためなら、なんてことはないさ」
ディルケオンそう言って笑ったが、普通に考えて、大した情報を持たない下級スパイが亡命しようとしたところで、軍や警備隊がどこまで守ってくれるかなど分からない。その後の身分や安全の保証のために、ディルケオンが手を回してくれたことは明らかだった。
わたしは立ち上がり、ディルケオンに抱きついた。優しく抱擁が返ってくる。
わたしは正直、ディルケオンのことを好青年だとは思っていたけれど、恋をしていたわけではなかった。
けれど、こんなにも心を砕いてくれたことに、胸が熱くなる。
「本当にありがとう、ディルク。あなたはわたしにとって、最高の婚約者だわ」
「どういたしまして。とはいっても、実際に作戦が実行されるのはこれからだ。敵に情報を与えたくないので、心配だろうが、ご家族とともに静かに過ごしてくれ」
「分かったわ。邪魔にならないように、両親となるべく家にいるようにします」
それから十日ほどして、エルサは無事に保護された。
軍と警備隊が連携した作戦は秘密裏に進められ、エルサがいた養成機関を潰し、エルサをウィシューニア家に紹介してきた貴族はもちろん、今回の作戦に関わった多くのスパイを逮捕したらしい。細菌兵器も確保され、すぐに解析が始まった。
ただ、養成期間の責任者であるガルドーを捕縛できなかったらしい。詳細は軍事機密なのでもちろん分からないが、念入りに行動スケジュールなども調査していたし、気付かれないよう細心の注意を払ったにも関わらず、偶然なのか勘なのか、作戦決行時に予定外の行動をしており、その為取り逃してしまったとのことだった。
エルサはスパイ養成機関や作戦に関する情報提供の功績が認められ、ディルケオンの働きかけもあり、司法取引で逮捕を免れた。
ガルドー司祭を取り逃したこともあり、エルサの裏切りは確実にアウベスタ側にバレている。報復される危険性がある為、これまで通りの生活を続けることはできないけれど、軍の関係者の元で暮らすことになるようだ。
リンジトルム邸でわたし達家族と再会したエルサは、子供のように泣きながら、わたし達を今まで騙してきたことを謝ってきた。
「そんなこと、気にしなくていいのよ。あなたの心がどこにあるか、わたし達は分かっているから」
「そうよ。これから名前が変わって会いにくくはなってしまうでしょうけれど、エルサはずっとわたくし達の家族よ」
「全く。私とて元々近衛兵だ。相談してくれれば、ツテを使ってどうにでもしてやれたものを」
さらに泣き出すエルサをしっかりと抱きしめて、家に帰った。しばらくは軍の警備のもと、家族水入らずに過ごさせてもらうことになっている。そして、エルサは五日後には旅立たなければならないのだ。
お父様も軍の教官の仕事を休み、わたし達は穏やかな数日を過ごした。
家族で観劇に出掛け、お茶会をして、皆で食事をする。そんな当たり前の毎日が、どれだけ得難い幸せなのか、痛感しながら…。
三日目の夜、ディルケオンが来て、エルサの移送先を教えてくれた。
アウベスタから遠い、南東の国境に近い町だそうだ。近くに軍の基地があり、町の住民の大半は軍関係者とその家族、という町。そこで、お父様の知り合いでもある方の家でお世話になるらしい。軍の教官の先輩にあたる方で、とても信用できるご夫婦だとか。
「連絡も取れるし、落ち着けばお互いに行き来もしやすいでしょう。近くに保養地があるから、現地までの移送はご家族もご一緒にいかがですか?もちろん、ほとぼりが冷めるまではエルサの居所は極秘にした方がいいので、情報操作はさせてもらいますが」
その保養地は軍関係者は安く利用できることもあり、とても人気の保養地だった。わたし達も家族で行きたいと話してあったこともあり、家族として過ごせる最後の旅行を楽しむことにした。
わたし達はその保養地に行ったことをしばらくは口外できないし、他の土地に向かったように偽装する必要があるが、現地では家族として普通に過ごしていいらしい。アウベスタからも遠く、基地はともかく保養地の方には、スパイも滅多に来ないらしい。
旅行についても、移送先についても、ディルケオンがわたし達のため、わたしの為、最高の選択肢を用意してくれたのが分かり、わたしのディルケオンへの想いも膨らんでいくばかりだった。
それまでになく顔を真っ赤にしたり、緊張しているわたしを見て、エルサはわたしをからかって笑っていた。
そうして、さらに二日後、わたし達はディルケオンや数人の軍人さんに移送されるエルサに合わせて、保養地に向かったのだった。