第6話 お姉様の婚約者
わたしはリンジトルム邸を訪れ、お姉様の婚約者と対峙した。
「珍しいね、エルサが一人で来るなんて。ウィルタはどうしたんだ。喧嘩でもしたのかい?」
「いえ、お姉様は無関係です。大事なお話があり、参りました。急な来訪をお許しくださり、感謝いたします」
にこやかにわたしの訪問を受け入れたディルケオンだったが、わたしの話が進むにつれ、百面相のように表情を変えていった。
お姉様は気付いていないが、この男はお姉様に重すぎるほどの想いを持っている。
お姉様の危機、お姉様の愛を裏切るわたし。彼の内心でどういう嵐が吹き荒れたことだろうか。
「信じがたい話だが、分かった。協力しよう。情報提供に感謝する」
「ありがとうございます。どうか、伯爵家の安寧をお守りください」
「…ウィルタたちの安寧というなら、君の身の安全や未来も重要ではないかな?仲のいい家族だけど、その輪の中に君も入っていると思っていたけど」
「…裏切られたと分かれば、そんな感情はすぐに忘れるでしょう」
「…本当にそう思うのかい?自分の家族からの愛を、信じていないのか?」
その言葉は、わたしの胸を抉った。思わず声が荒くなる。
「じゃあ…じゃあどうすればいいっていうの!?こうなった以上、わたしがスパイであることは隠し通せないし、王族を害そうというのよ。下手に止めても戦争になるかもしれないし、そこまではいかなかったとしても、アウベスタ側がどう動くか、事態がどう転ぶか分からない。万が一にも、義家族に害が及んでほしくないの」
ディルケオンはしばらく黙った。
「…最優先がウィルタの安全という点では、私も一致している」
しばらくしてから、彼は静かにそう告げた。そして結局は、わたしの方針に乗ってくれたのだった。
わたしが自分に細菌兵器を打つとして、アウベスタ側にそれが自然に見えるようにしなくてはならない。
動機は万が一にも作戦を失敗したくなかったから自分を使ったとでも言えば、あの司祭は信じるだろう。彼の中では、ごく当たり前のことだから。
問題は流れだ。わたしが王族に会えるような、あるいはお姉様抜きでディルケオンに会うような場面を、今日のようなお忍びではなく、おおっぴらに見せる必要がある。でないと、わたしにガーヴェラントの人間を傷付けるつもりがないと知れてしまい、裏切りがバレてしまう恐れがある。
ところが、ディルケオンはそれをあっさりと解決した。わたしがディルケオンに懸想していたことにして、婚約者の交代を演出すればいいのだと。
「でも、そんな方法をとって、全てが終わった後、ちゃんとお姉様に許してもらえるの?」
ディルケオンはお姉様が大好きなので、そんな疑われるような作戦を提案してきたことが意外だった。
「ウィルタなら大丈夫さ。全てが終われば、むしろ私の愛を感じ、いっそう私を想ってくれることだろう」
にやりと笑って言うものだから、それ以上は気にしないことにした。正直、わたしにとってはどうでもいいことだ。こいつと破局しようが、お姉様になら、いくらでも素敵な男が現れるだろう。
「…なにか、不愉快なことを考えてないか?」
本当は信憑性を高める為にあれこれ演出したかったところだけれど、時間がなかった。
話し合いからわずか五日後には、ディルケオンがお姉様に婚約破棄を告げ、わたしはその翌日には侯爵家に向かった。
やはり不自然だったようで、別れ際にお姉様から疑いを向けられたが、押し通した。
全てが終われば、分かってくれるだろう。わたしが死んだ後、わたしがお姉様や両親のことを愛していたことを知ってくれれば、それで良かった。
わたしは侯爵邸で静かに過ごした。本当に嫁入りするわけではないので、花嫁修行など必要ない。やることもなく過ごすばかりだった。
侯爵家の皆さんにどう伝えているのか知らないが、侍女や下働き達は何かを言ってくるでもなく、かと言って悪感情を見せるでもなく、静かに世話をしてくれた。
あとは、ディルケオンの準備が整い次第、自分に細菌兵器を打って、捕まるだけだ。
わたしは伯爵家で過ごした日々の思い出に思いを馳せながら、その日を待った。
思いの外、死ぬまでの数日間を穏やかに過ごせてよかった。
そんな風に思っていた。
そうして何日過ごしただろうか。
遂にディルケオンがやってきた。
「準備ができた」
「はい」
「案ずるな、全く持って抜かりはない。もう、全ては終わった」
…良かった。これでもう憂いはない。わたしは義家族の幸せを祈りながら、断罪の場へ歩く。
どういう形で捕まるのだろうか。このまま、牢獄へ?細菌兵器はいつ打てばいいのだろう。そういえば、ディルケオンに預けたままだ。
最後に一目、義家族に会いたかったなぁ。あの日、覚悟して、別れ際は目に焼き付けるように見ておいたのだけれど。
やはり日が経つと、人の覚悟など簡単に失われてしまうものね。
案内されたのは、侯爵邸内の部屋だった。侍従が扉を何度か扉を叩いてから、開ける。
中にいたのは、義家族だった。
「エルサ!」
お姉様が駆け寄ってきて、わたしを抱きしめた。
「お姉様、何故…」
ディルケオンの粋な計らい?最後の温情?
「もう大丈夫よ」
お姉様が、わたしを抱きしめたまま言った。義両親も寄ってきて、お母様がお姉様ごとわたしを抱きしめ、お父様は三人を包むように抱いて、優しく頭を撫でてくれた。
「よく頑張りましたね、もう何も心配はいらないのよ」
「ああ。家に帰ろう」
わたしは何がどうなっているのか分からなかった。けれど、その声にはいつも通りの優しさしかなくて。
何が何だか分からないまま、わたしは安心して泣き出してしまったのだった。