悪魔の囁き
ヒロイン登場前の乙女ゲームの世界。
悪役令嬢であるマテラにとっても、平和な時間が流れていた。ヒロインの攻略対象とは、うまく距離をとれている。王太子妃教育にかこつけ、彼らと会うことになりそうな宮殿のイベントも回避した。キリマンの方も、王太子教育に追われている。この点は、年齢が同い年で良かったと思う。年齢差があれば、二人で会う時間も増えた気がしたからだ。
こうして時は確実に流れて行く。
このままヒロインが登場する王立タウンセンド学園へ入学する――そう思っていた矢先のことだった。キリマンと私は、王立タウンセンド学園に入学と同時に、王太子教育、王太子妃教育から、それぞれ解放されることになっている。最後の授業を終えた後、侍従長の計らいで、庭園にお茶の席が設けられた。キリマンと私のために。
そこで行儀よく二人で紅茶を飲み、用意されたスイーツを口に運んだ。王宮の専属のパティシエが作ったシュークリーム、マカロン、タルト……どれもとても美味しい。キリマンとは、来週からいよいよ始まる学園生活について、落ち着いて話していた。
少しだけ長く、キリマンがレストルームに行っていたが、それ以外はいつも通りだったと思う。
問題なく、お茶会は終了する。私はキリマンに、宮殿のエントランスまで、見送られることになった。そして待っていた馬車に乗り込んだ時。なぜかキリマンも、一緒に馬車に乗って来たのだ。さらにはいきなり抱きしめられ、耳元でこんなことを言われた。
「マテラ。僕たちは学園を卒業し、そして二十歳になると、婚儀を挙げる。婚儀を挙げた夜に何をするか、知っているか? 知らないだろう。何をするのか……少しずつ、教えてあげるよ」
これはもう悪魔の囁きだった。
前世持ちの私は、社会人の経験もあり、さすがに結婚式の夜に、新郎新婦がどのように過ごすかを知っている。でもキリマンは、マテラがそんなことを知らないと思った。そこで「教えてあげる」という言葉で、どうも超えてはいけない一線を超えないまでも、手を出そうとしていることが判明した。
乙女ゲーム『今日から君もプリンセス~恋と魔法の物語~』は、全年齢版なのに。一体、キリマンはどうしたのかと思った。だが学園に入学してから、行き帰りの馬車の中で、キリマンはマテラの体に、手を出すようになったのだ。
これはもうセクハラだ。
何より王族の婚姻では、乙女であることが求められている。とはいえ、前世のフランスの王族のように、臣下立会いの元、というわけではなかった。だからといって、一線を超えていいとは思えない。そこはキリマン自身も、さすがに自覚しているとは思う。それなのにキリマンの鼻息は、荒い。とてもではないが、一線を超えないなんて無理だろう……そう思えた。しかも日に日に行動が、エスカレートしている。
ヒロインも入学してきて、それどころではないのに。こんなセクハラに耐えるのは……。
そう思った私は、神殿へ通うことを思いつく。この国では、願掛けのために神殿へ通うことは、よくある話。しかも願掛けしたことが成就するまでの間は、いろいろと禁止事項があった。それは浪費をしない、暴食をしない、色欲に溺れない……などなど。
それに神殿へ通うことで、学園の行き帰りの馬車を、キリマンと共にしないで済むことになった。しかも私の願掛けは「キリマン王太子殿下と無事、婚儀の日を迎えられますように」というもの。学園への行き帰りに神殿へ出向き、毎日祈りとして捧げるというわけだ。
キリマンとしては、文句を言いたいが、言えない。私が願っているのは、二人の婚儀のこと。しかも願掛けを始めたことは、既に国王陛下夫妻に報告済み。下手に何か言えば、国王陛下から「キリマン。お前もマテラと共に、願掛けをしてはどうだ?」――そう言われかねない。
こうして私は、キリマンからのセクハラを回避できたが、思わぬ副作用が出た。キリマンの方から、ヒロインであるマデリン・マヨに、近づいてしまったのだ。
マデリンは、美人なマテラに対し、童顔で可愛らしいのに、男性がそそられる体型をしていた。異性への関心が高まっているキリマンが、マデリンを見逃すわけがなかった。だがさすがにキリマンも、私という婚約者がいることは、自覚している。よって人知れずマデリンとの仲を、深めていったのだ。
マデリンとキリマンの仲の深さが、どの程度のものかは分からない。だがヒロインと攻略対象なのだ。ゲームのバフもかかり、その仲はしっかり深まったのだろう。
婚約者もいる。よってこれは火遊び――ぐらいのつもりだったのかもしれない。キリマンは。でも相手が悪かった。何せキリマンは攻略対象で、マデリンはヒロイン。そこはヒロインであるマデリンに、軍配がある。
マデリンは最初、宰相の息子に興味を持っていた。だがそこに、未来の国王陛下という立場のキリマンが、積極的にアプローチしてきたのだ。まさに玉の輿。マデリンはすぐ様、成績優秀なインテリ青年から乗り換え、キリマンをロックオンした。
ヒロインが全身全霊を込め、キリマン攻略に着手したのだ。もうキリマンは逃れられない。完全に骨抜きにされてしまった。
こうなるとキリマンとしては、身持ちが固く、神殿通いなどする私よりも、マデリンを婚約者にしたくなる。だが私と婚約破棄するにも、理由がない。婚姻前に体を許してくれないから――なんて理由では、婚約破棄は無理だ。そうなればどうするか。言うまでもない。まずは婚約破棄にできるような、埃がないかのあら探し。
叩いても埃が出ない人間なんて、そうはいないだろう。私にだってあったと思う。ただ、それは婚約破棄につながるようなものではない。そうなればすることは一つ。婚約破棄の理由になるような、事由のでっちあげだ。